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靖国神社 中門鳥居前 咲き始めた桜
梅にしては色が薄いし、何の花かと近づいたら桜だった。桜の種類は分からず、他の木々同様植樹した部隊名が付けられていた。 |
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靖国神社 中門鳥居前 咲き始めた桜 |
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靖国神社 参道 第二鳥居 |
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靖国神社 参道 第二鳥居前 大灯籠(右) 旧海軍
旧陸軍の反対側にあり、レリーフも分かりやすい。 |
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靖国神社 参道 第二鳥居前 大灯籠(右) 旧海軍
説明はないが、日露戦争の旅順口閉塞で戦死した広瀬中佐である。
第二回旅順口閉塞
明治37年3月27日、福井丸指揮官廣瀬中佐、杉野兵曹長を求めつつ短艇に移る刹那の光景 |
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靖国神社 参道 第二鳥居前 大灯籠(右) 旧海軍
日露戦争の日本海海戦の東郷司令長官を描いた三笠艦橋の図である。
日本海海戦
明治38年5月27日東郷司令長官露国艦隊を撃滅す。 |
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靖国神社 参道 外苑休憩所
第二鳥居前の土産物店で、小泉元首相以来、首相をテーマにした饅頭販売で有名である。 この土産物は自民党系と民主党系の2店が製造、販売しており、小泉元首相で味をしめた店は、その後の短命政権で在庫の山を築き、民主党政権下では石破、小泉進次郎でしのいでいた。 民主党系の店は鳩ポッポ人気で売れるかと思ったが、歴代の不評でさっぱり売れなかった。 |
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靖国神社 参道 外苑休憩所
以前は1年毎に首相が交代していたため、来るたびに新製品が飾られていた。最近は長期政権のため、以前見たものが引き続き売られており、新作は「伊勢志摩 晋ちゃんのお茶会 まんじゅう」だけである。 |
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靖国神社 参道 外苑休憩所
何故か麻生太郎の「タロ・カポネ」と、有吉弘行の「子供のケンカに 親が出る」が引き続き売られている。 |
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靖国神社 参道 大村益次郎銅像 |
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靖国神社 参道 大村益次郎銅像
大鳥居(第一鳥居)と第二鳥居との中間にある巨像で、旧帝国陸軍創始者で長州藩士、大村益次郎の像である。
大村益次郎は文政七年(一八二四)周防国鋳銭司村(現、山□県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方沢庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、石州□の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治二年(一八六九)九月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年十一月五日大阪にて歿した。四十六歳。 明治二年八月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月十二日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治十五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。 大熊氏廣の帰朝後、漸く明治二十六年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子と言われる。 |
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靖国神社 参道 大鳥居(第一鳥居)
参道の左手には日露戦争の常陸丸殉難記念碑など、様々な慰霊碑、記念碑がある。 |
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靖国神社 参道 大鳥居(第一鳥居) 前から見た九段坂 |
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靖国神社 参道 大鳥居(第一鳥居)
大鳥居(第一鳥居)は靖国神社御創建五十周年記念として大正十年に建立されたが、昭和十八年戦力増強のため撤去されてそのあとに小さな檜の鳥居が建てられていた。 全国約一万七千名の芳志に基づく浄財一億六千万によってこの大鳥居を再建復原して御祭神二百四十五万余柱の英霊に捧げるものである。 |