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仁和寺 御殿 本坊表門
仁和寺(旧御室御所・世界遺産)
仁和寺の創建は平安時代、第58代光孝天皇が西山御願寺として着工されたのに始まります。仁和4年(888)、宇多天皇が先帝のご遺志を継がれ、仁和寺を完成されました。宇多天皇は、退位後、出家して仁和寺を住坊にされ、30余年もの間、真言密教の修行に励まれました。以来、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡となられ、仁和寺は御室御所と呼ばれ親しまれてきました。
広大な境内は御室御所跡として史跡に指定され、国宝、重文の伽藍が配されています。宝物も国宝、重文を多く有し、また、御室流華道の家元として、いけばなを通じ文化の向上にも貢献しています。
現在、仁和寺は真言宗御室派の総本山であり平成6年に国連の世界遺産に登録されました。 |
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仁和寺 御殿 御殿入口
仁和寺
真言宗御室派の総本山で、平成六年(一九九四)に世界文化遺産に登録された。
平安時代前期に光孝天皇が創建に着手した後、仁和四年(八八八)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、三十余年間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから、「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。
以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡西麓に仮御所を設けた時期もあった。
現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿を移した金堂(国宝)をはじめ、御影堂・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・二王門(いずれも重要文化財)などは当時の建物である。仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。
西門から成就山の麓にかけて、四国の八十八ヶ所霊場を縮小した「御室八十八カ所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室桜」(名勝)がみられる。 |
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仁和寺 御殿 白書院に向かう渡り廊下から見た南庭 勅使門 |
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仁和寺 御殿 白書院
白書院
この建物は、明治二十年(一八八七)に仁和寺御殿が焼失したため、仮宸殿として、明治二十三年(一八九〇)に建てられたものである。その後、宸殿等の諸建造物が再建されると「白書院」と呼ばれるようになった。
白書院の襖絵は、昭和十二年(一九三七)に福永晴帆画伯によって、松を主題にした四季おりおりの景色か描かれている。 |
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仁和寺 御殿 白書院 |
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仁和寺 御殿 白書院から見た南庭 勅使門 |
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仁和寺 御殿 宸殿に向かう渡り廊下 |
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仁和寺 御殿 現代アート展 1000枚の千手観音 |
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仁和寺 御殿 現代アート展 1000枚の千手観音
千手観音の千の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする観音の慈悲と力の広大さの表現です。
私にとって慈悲とは人の個性を認めるということと考えています。
多様な個性が認められる世の中であって欲しいという願いから、千手観音を通して「様々な個性」を表現したいと考えるようになりました。
昔、ある映像監督の方から絵について、
「作品は圧倒的なサイズか、量が大切」と言われた言葉が強く印象に残っていました。そこで当時狹いアトリエでしたので゛小さな量゛を選択し日々積み上げることで ゛圧倒的なサイズ゛になりました。
今日までで2,200枚以上の作品を描きました。
今回はその内の1,000枚を展示しております。
多くの方にご覧頂けましたら幸いです。 |
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仁和寺 御殿 現代アート展 1000枚の千手観音 |
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仁和寺 御殿 黒書院
黒書院
明治二十年御殿の焼失復旧のため、旧安井門跡の寝殿の遺構を移Lて黒書院としたもので、明治四十二年(一九〇九)に完成した。 |
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仁和寺 御殿 黒書院 |
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仁和寺 御殿 北艇 |
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仁和寺 御殿 北艇 |
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仁和寺 御殿 北艇 工事中の宸殿 |
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仁和寺 御殿 北艇 霊明殿
霊明殿
霊明殿は、御殿内の唯一の仏堂で、仁和寺歴代門跡の位牌をおまつりしている。
明治四十三年(一九一〇)起工、翌年竣工した。
本尊は薬師如来座像、秘仏のため実態が不明であったが、昭和六十三年(一九八八)の調査で貴重なものであることがわかり、平成元年六月に重要文化財に指定、つづいて翌年六月には国宝に指定された。全高一〇・七センチ、平安時代後期の円勢・長円の作である。 |
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仁和寺 御殿 遼郭亭 重要文化財(非公開) |
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仁和寺 御殿 北艇 工事中の宸殿 |
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仁和寺 御殿 本坊表門 二王門 |