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大徳寺 金毛閣〜興臨院〜総見院

【関連サイト】   秋の大阪、京都散策H221001-02(大徳寺−1 南門〜勅使門〜瑞峯院)
秋の大阪、京都散策H221001-02(大徳寺−2 三門〜宗務本所〜高桐院)
秋の京都 洛北散策H251007(秋の大徳寺散策H251007)


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リーガロイヤルホテル京都 リーガロイヤルホテル京都 

リーガロイヤルホテル京都〜大徳寺 金毛閣〜興臨院〜総見院〜妙心寺(花園会館〜法堂〜大庫裏))〜退蔵院(方丈〜元信の庭〜余香苑)〜東海道新幹線 京都駅 八条口

【撮影記録】
令和元年 10月 27日 晴
9:30〜15:40 7,300歩(概算 4.7km) 

好天の中、大徳寺の秋の特別公開で総見院を訪れた。9年前に地下鉄北大路駅から洛北を歩いた際、大徳寺を訪れたが非公開のため織田信長の菩提寺である総見院は見物できなかった、今回のツアーで行きたかった場所の一つである。撮影厳禁なのが残念ではあるが。
妙心寺の鳴き龍も雄大で見事だった。予定では16時八条口だったが、20分早かったうえ、時代祭の翌日で道路が混むと予想されていたので18時の新幹線の予約としていた。2時間半の時間を過ごすのは少し辛かった。
大徳寺 総門 大徳寺 総門 

大徳寺の南西角に当たる北大路通の大徳寺前交差点で右折、旧大宮通を北上して観光バスの駐車場に入る。そこから東にある総門より大徳寺に入る。
大徳寺 総門 秋の特別公開 大徳寺 総門 秋の特別公開 

秋の特別公開として
興臨院 (重要文化財 本堂・唐門、方丈前庭園、茶室「涵虚亭」
黄梅院 千利休作庭「直中庭」、茶室「昨夢軒」、重要文化財 庫裡
総見院 重要文化財 「木像織田信長公坐像」

今回は興臨院、総見院を拝観する。
大徳寺 参道 南門に向かう塔頭 龍源院角 大徳寺 参道 南門に向かう塔頭 龍源院角 

左折すると塔頭 龍源院、黄梅院と経て北大路通の南門に着く。
大徳寺 参道 山門 大徳寺山内図 大徳寺 参道 山門 大徳寺山内図 

総門から参道を西進すると山門が見える。
大徳寺 参道 山門 大徳寺山内図 大徳寺 参道 山門 大徳寺山内図 

赤印は金毛閣という山門で、その先で参道は右折して仏殿、法堂と続き、突き当りが宗務本所である。興臨院は山門横の参道が曲がった所の左側にある。宗務本所前で参道は左に曲がり、総見院や近衛家墓所を経て西進する。いずれも非公開であり、9年前は松並木の参道を歩いた。
大徳寺 参道 山門前 勅使門 大徳寺 参道 山門前 勅使門 

三門前にある、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる。
大徳寺 参道が右折する角にある平康頼之墓 大徳寺 参道が右折する角にある平康頼之墓 

平判官平康頼は、平家打倒の鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として、鬼界ヶ島に流された。一人だけ赦免されなかった俊寛の逸話でも有名である。

大徳寺は鎌倉時代末期の14世紀初めの創建なので、何故ここに平康頼の墓があるのかは分からない。
大徳寺 山門 金毛閣(重要文化財) 大徳寺 山門 金毛閣(重要文化財) 

山門前には柵が設けられており、近づくことが出来ない。

 応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、のち千利休居士により二階部分が設けられ金毛閣と名づけられた。
 山門とは、龍宝山の門、三門とは、三解脱門(空門・無相門・無作門)のこと。一端、三門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを。
大徳寺 山門 金毛閣(重要文化財) 大徳寺 山門 金毛閣(重要文化財) 

ここから参道の左にある興臨院に向かい、拝観後にまた山門に戻り参道を北上して総見院に向かう。興臨院については別ページにまとめた。
大徳寺 山門 金毛閣(重要文化財) 大徳寺 山門 金毛閣(重要文化財) 
 大徳寺 参道を北上 仏殿(重要文化財) 大徳寺 参道を北上 仏殿(重要文化財) 

 当山第一世大現国師により創建せらるるも応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるも、寛文5年(1665)那波常有によって改めて建造。
大徳寺 参道を北上 仏殿(重要文化財) 大徳寺 参道を北上 仏殿(重要文化財) 
大徳寺 参道を北上 三玄院 大徳寺 参道を北上 三玄院 

参道を挟んで仏殿の向かいにあり、門前左の柱には石田三成公御墓所と刻まれている。
大徳寺 参道を北上 三玄院 大徳寺 参道を北上 三玄院 

 天正十七年(一五八九)、浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
 小堀遠州・古田織部・藪内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。
沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。
 織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は、原在中の筆による。
大徳寺 参道を北上 法堂(重要文化財) 大徳寺 参道を北上 法堂(重要文化財) 

 正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始める。これまた応仁の兵乱によって消失。一休和尚、仏殿を再建されて後、仏殿と兼用であった。
 寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒、小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建。
 天井の龍は、狩野探幽35歳の筆による。
大徳寺 参道突き当りで左折 宗務本所 大徳寺 参道突き当りで左折 宗務本所 

 臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺城に別院二ヶ寺と二十一の塔頭を有する。
 鎌倉末期の正和四年(一三一五)に、大燈国師(宗峰妙超)によリ開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い信仰を受けた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。応仁の乱で建物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんどと整えられた。
 三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財)・方丈(国宝)など、主要建物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建物である。方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画、古文書などの多くの寺宝を蔵する。
 茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。
大徳寺 参道を西進 宗務本所横奥 芳春院 大徳寺 参道を西進 宗務本所横奥 芳春院 

慶長13年(1608年)に玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として加賀百万石の祖・前田利家の夫人・松子(まつ、芳春院)が建立。法号をとって芳春院と名付け、前田家の菩提寺とした。寛政8年(1796年)の火災により創建当時の建物が焼失するが、二年後に前田家十一代の前田治脩によって再興された。明治期には廃仏毀釈の嵐の中で荒廃するが、明治8年(1875年)になってようやく復興される。0
大徳寺 参道を西進 総見院 大徳寺 参道を西進 総見院 

織田信長の菩提寺である総見院で、9年前(平成22年)に立ち寄ったが、非公開だった。有名な織田信長の木像座像は撮影厳禁だったが、拝観の詳細は別ページにまとめた。
大徳寺 参道を東進 宗務本所で右折、法堂を過ぎる 大徳寺 参道を東進 宗務本所で右折、法堂を過ぎる 
大徳寺 参道を東進 宗務本南下 勅使門 大徳寺 参道を東進 宗務本南下 勅使門 

総門を出てバスに乗り妙心寺に向かう。



 
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