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漱石公園〜漱石山房通り〜東西線 早稲田駅

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漱石山房通りの坂道を上る 漱石公園、漱石山房記念館 漱石山房通りの坂道を上る 漱石公園、漱石山房記念館 

漱石山房通りの坂道を上っていくと漱石公園があり、隣接して住宅街にはそぐわないほど立派な漱石山房記念館がある。
 漱石山房通りの坂道を上る 漱石公園 漱石山房通りの坂道を上る 漱石公園 
 漱石山房通りの坂道を上る 漱石公園 漱石山房通りの坂道を上る 漱石公園 

夏目漱石胸像

正門横には平成3年建立された富永直樹作『漱石胸像』、碑面には『則天去私』の碑文がある。

『漱石は慶応3年(1867)2月9日この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)に生まれた。 明治40年9月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、大正5年(1916)12月9日、数え年50歳で死去した。 この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。
なお、表の漱石の自筆の俳句は
「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」 と詠む。
漱石公園 入口の案内板 漱石公園 入口の案内板 

漱石の散歩道

明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈か数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?

終焉の地(漱石公園)
漱石が、明治40年(1907)9月から大正5年(1916)に亡くなるまで過ごした場所です。ここは「漱石山房」と呼ばれ、毎週木曜日の「木曜会」には多くの弟子たちが集まりました。

夏目坂
夏目家は、江戸時代には町方名主を務める名家でした。夏目家は、馬場下から南東へ上る坂で、漱石の父・直克が命名したといいます。
漱石公園 入口の案内板 漱石公園 入口の案内板 

漱石山房の記憶

夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、「明暗」執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます、漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。
漱石公園 猫塚、漱石山房記念館 漱石公園 猫塚、漱石山房記念館 

猫塚

明治41年9月13日は 「吾輩は猫である」のモデルであった初代猫の13回忌である、 大正10年9月に初代俗称「猫塚」を遺族が自然石を重ねた多層塔で建てられた。

しかし震災や戦災により損傷崩壊し現在の塚は昭和28年12月9日三代目「猫塚」が区により修復再建される。

漱石公園 道草庵 漱石公園 道草庵 

漱石の関連資料やパネルが展示されており、当日(月曜)が漱石山房記念館の休館日であることから、管理人の好意で漱石の事績を紹介する10分程度のビデオを鑑賞した。
漱石公園 猫塚、漱石山房記念館 漱石公園 猫塚、漱石山房記念館 

道草庵で涼むことが出来たが、外は猛烈な暑さで、汗が止まらない。
漱石山房通りの坂道を上る 漱石山房記念館 漱石山房通りの坂道を上る 漱石山房記念館 

休館日なので入口で工事をしており近寄れない。
漱石山房通りの坂道を上る 漱石山房記念館 漱石山房通りの坂道を上る 漱石山房記念館 

新宿区指定史跡 夏目漱石終焉の地

 この地は、作家・夏目漱石が明治四十年(一九〇七)九月二十九日から亡くなる大正五年(一九一六)十二月九日まで暮らした、通称「漱石山房」の跡地である。
 漱石山房は木造平屋建ての和洋折裏の建物で、漱石は洋間二間を書斎。客間として使用した。漱石は「坑夫」を皮切りに、「三四郎」「それから」「門」「こころ」「道草」などの代表作をこの地で発表し、「明暗」の連載半ばに胃潰瘍により世を去った。享年四十九歳。
 漱石没後の大正七年(一九一八)には、漱石の夫人鏡子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。
 その後、漱石山房は昭和二〇年(一九四五)五月二十五日の空襲で焼失し、跡地は昭和二十五年(一九五〇)に東京都の所有となった。跡地は長らく都営アパート(昭和五十二年に区へ譲渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和五十一年(一九七六)にはその一部に漱石公園が、平成二十九年(二○一七)九月二十四日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。
漱石山房通りの坂道を下る 漱石山房通りの坂道を下る 
漱石山房通りの坂道を下る 漱石山房通りの坂道を下る 

漱石山房通り

明治の文豪、夏目漱石か晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあった。
漱石山房通りの坂道を下る 新宿区立早稲田小学校 漱石山房通りの坂道を下る 新宿区立早稲田小学校 

公立小学校とは思えない洒落た校舎である。
漱石山房通りの坂道を下る 新宿区立早稲田小学校 漱石山房通りの坂道を下る 新宿区立早稲田小学校 

左の早稲田小学校の塀時に下りきった所から坂道は上り坂となる。道は狭く、車1台が精一杯である。
漱石山房通りの坂道を上る 新宿区立早稲田公園 漱石山房通りの坂道を上る 新宿区立早稲田公園 

坂の途中に公園があり、首に装着した電気式の冷却装置が効かなくなっているようなので確認も兼ねて休憩した。
漱石山房通りの坂道を上る 新宿区立早稲田公園 漱石山房通りの坂道を上る 新宿区立早稲田公園 
漱石山房通りの坂道を上る 新宿区立早稲田公園 熱中症計は危険 漱石山房通りの坂道を上る 新宿区立早稲田公園 熱中症計は危険 

現在時刻は11:10で、熱中症計は危険、温度35.9℃、湿度50%である。気象庁の発表では当日最高気温は32℃だったが、皇居北の丸公園の鬱蒼とした木陰で測った温度と木陰とは言え小公園の温度とは差が出るのは当然である。

漱石公園付近で首に装着した冷却装置の排気のファンが回ってないように思われたが、公園で確認したら驚いたことに電源のモバイルバッテリーは空になっていた。普段スマホやモバイルルーターの予備電源として朝から夕方まで使って空になるかどうかの3200mAのモバイルバッテリーである。もう1台あった5000mAのモバイルバッテリーに交換した。
漱石山房通りの突き当りで左折、早稲田通りへ 漱石山房通りの突き当りで左折、早稲田通りへ 
早稲田通りを西進 早稲田大学 喜久井町キャンパス 早稲田通りを西進 早稲田大学 喜久井町キャンパス 
早稲田通りを西進 地下鉄早稲田駅前交差点 早稲田通りを西進 地下鉄早稲田駅前交差点 
早稲田通りを西進 地下鉄早稲田駅前交差点 夏目坂通り 早稲田通りを西進 地下鉄早稲田駅前交差点 夏目坂通り 

夏目坂通りを少し上った所に夏目坂由来碑や夏目漱石誕生之地碑があるが、自販機の商品詰替えで通り抜けるのが面倒なので断念した。

夏目坂を上ると抜弁天通りと大久保通りとが合流する若松町交差点に出る。
早稲田通りを西進 地下鉄早稲田駅 早稲田通りを西進 地下鉄早稲田駅 

予定では早稲田大学の大隈講堂などの早稲田キャンパスを巡り、文学学術院がある戸山キャンパス、箱根山、理工学術院がある西早稲田キャンパスを経て副都心線の西早稲田駅に向かう予定だった。
しかし、気温が36℃と高温で、熱中症対策の機器のファンがモバイルバッテリーの容量不足から弱まってきているのでウォーキングを中止した。



 
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