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神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る
どこまでという明確な区切りはないが、神楽坂駅からさらに坂を上り、下りにかかった付近から神楽坂通りの表示がなくなる。 |
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早稲田通り 矢来町地域安全センター前交差点で右折
一見交番風の建物があり、その先に江戸川橋通りと交差する牛込天神町交差点がある。
3年前の11月に東京メトロのイベントで通った時、この付近にあった小浜藩酒井家の下屋敷に寄った記憶があるが、特に案内もなく通り過ぎた。帰宅後に調べたら、この交差点で左折、少し歩いた所の矢来公園だと分かった。 |
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早稲田通り 牛込天神町交差点で左折
右折すると江戸川橋通りで、護国寺に向かう。 |
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早稲田通りを西進
神楽坂下交差点から一方通行、神楽坂上交差点からは片道ぎりぎり1車線だった早稲田通りも、牛込天神町交差点からは片道2車線のゆったりした道路となる。 |
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早稲田通り 弁天町交差点で外苑東通りを渡る |
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早稲田通り 弁天町交差点で外苑東通りを渡る |
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早稲田通り 龍音寺
寺というより、寺風の建物という印象で他を圧する。 |
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早稲田通り 地下鉄早稲田駅前交差点
交差点を渡った所に早稲田駅がある。この界隈には夏目漱石の誕生地の碑もある。 |
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早稲田通り 地下鉄早稲田駅前交差点 左折すると夏目坂通り |
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夏目坂通り 夏目坂由来
夏目漱石の随筆「硝子戸の中」(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。 |
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早稲田通り 地下鉄早稲田駅前交差点 夏目漱石誕生之地碑 |
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早稲田通り 地下鉄早稲田駅前交差点 夏目漱石誕生の地
文豪夏目漱石(一八六七〜一九一六)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。
夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、二歳の十一月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、二十二歳のとき夏目家に復籍している。
なお、この地での幼少時代のことは大正四年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。
また、この記念碑は昭和四十一年に漱石生誕百年を記念七て建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。 |
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東京メトロ 東西線 早稲田駅 |
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早稲田大学 早稲田キャンパス(本部) 大隈重信侯像
早稲田大学関連は別ページに整理した。 |
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早稲田大学沿いにグランド坂通りを上る |
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グランド坂通り 西早稲田交差点で右折、早稲田通りへ
左折して坂を下ると穴八幡宮がある馬場下町交差点に出る。 |
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早稲田通り 古書店街
かつては神保町の神田古本街ほどではないものの、早稲田も古本街で有名だったが、今はほとんどなく、数軒並んでいるのが珍しい。
40年以上前の学生時代は理系のため専門書も高く、特に洋書は丸善で買わざるを得ず、苦労したが、今は本そのものも読まれなくなり、古本の時代ではないのだろう。 |
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早稲田通り 子育地蔵尊(源兵衛地蔵尊)
この地蔵尊がお立ちになっている付近は、元禄の末頃に源兵衛という人が来て、鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開こんしましたところ同心の人々が集まって来て二十八戸から成る新しい村が出来ましたから源兵衛村という名がつけられたと言い伝えられています。
その後、二・三十年の間に、亡くなられた源兵衛をはじめ、同心縁者の菩提の供養をかねて、功績を記念するために村民の有志者か講中を結集して享保十一年(一七二六年)にこの地蔵尊を安置いたしました。 |
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早稲田通り 子育地蔵尊(源兵衛地蔵尊) |
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早稲田通り 馬場口交差点で明治通りを渡る |
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早稲田通り 馬場口交差点で明治通りを渡る
明治通りを4年前の6月(平成20年6月14日)に副都心線が走り、左折して新宿寄りに早稲田大学理工学術院と接続する西早稲田駅がある。 |
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早稲田通り 早稲田松竹
新宿や渋谷のような繁華街ではない所で見ることもまれな映画館がまだ残っているのには驚かされる。
いわゆる名画座で、映画会社の系列に無関係に2〜3本立てで上映する。 |
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早稲田通り JR 山手線 高田馬場駅 |
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東京メトロ 東西線 高田馬場駅
JR山手線、西武新宿線の改札口前に東西線の高田馬場駅がある。 |