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靖国神社〜神楽坂下交差点〜牛込天神町交差点

【関連サイト】   前回)秋の気配を感じながら、賑わいの神楽坂へ(H19−10−20)
文学の薫りを楽しむ早稲田・神楽坂散歩(H16−10−02)


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靖国神社脇の早稲田通りへ向う 靖国神社脇の早稲田通りへ向う 

早稲田通りの始点は靖国神社の木立奥であり、分かりにくい。
靖国神社脇の早稲田通りへ向う 靖国神社脇の早稲田通りへ向う 

早稲田通りに入った所に慰霊碑がある。一見「鬼」に見えるが、「魂」である。左側にボルネオなどの地図が描かれた碑があり、豪北方面戦没者慰霊会とある。
早稲田通り 旧都立九段高校 早稲田通り 旧都立九段高校 

かつて第一学区の日比谷に続く二番手高校だった。日比谷が府立1中、両国が2中、戸山が4中だが、九段は東京市立中学である。
都立高の低迷打破のため、九段高校は平成18年に九段中学校と統合し、中高一貫の千代田区立九段中等教育学校となっている。

一瞬九段高校はどこに行ったのだろうか、と思った。近くの富士見一丁目由来の地図で改組したことが分かった。
早稲田通り 富士見一丁目 由来 早稲田通り 富士見一丁目 由来 

 この界隈が富士見と呼ばれるのは、文字通り、町内から富士山の雄姿が眺められたことに由来します。九段坂を上りきった台地に位置する富土見一丁目は、まだ高いビルがなかった時代には、どこからでも富士山がくっきりと眺められたといいます。
 日本人にとって富土山は古くから特別の山でした。とくに江戸時代には、富士講といって富士山信仰がさかんに行われていました。江戸時代の地図を見てみると「富士塚」と呼ばれる遥拝所が、町中に数多く見つかります。当時の人たちにとって、富士山はそれほどありがたい山だったのです。
 ここが富士見と呼ばれるようになるのは明治時代に入ってからのことです。
早稲田通り 牛込橋 早稲田通り 牛込橋 

牛込見附(牛込御門)の遺構が残っている。
早稲田通り 牛込橋 早稲田通り 牛込橋 

 この橋は、「牛込橋」といいます。
 「御府内備考」によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込□」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と「牛込方」(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
早稲田通り 牛込橋 早稲田通り 牛込橋 

江戸城郭門の一つである牛込見附の一部の石垣が現在も残っている。
早稲田通り 飯田橋駅 早稲田通り 飯田橋駅 
早稲田通り 神楽坂下交差点で外堀通りを渡る 早稲田通り 神楽坂下交差点で外堀通りを渡る 

神楽坂下交差点で外堀通りを渡り、神楽坂を上る。早稲田通りの名が場所の雰囲気に馴染まない。やはり「神楽坂」通りの方がよい。
早稲田通り(神楽坂通り) 早稲田通り(神楽坂通り) 
早稲田通り(神楽坂通り) 善国寺 早稲田通り(神楽坂通り) 善国寺 

「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰を あつめた毘沙門天立像である。
 木彫で像高三十センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃かと推されるが、作者とともに詳しくは不明である。
早稲田通り(神楽坂通り) 早稲田通り(神楽坂通り) 

 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
早稲田通り(神楽坂通り) 早稲田通り(神楽坂通り) 
早稲田通り(神楽坂通り) 神楽坂上交差点 早稲田通り(神楽坂通り) 神楽坂上交差点 

大江戸線が走る大久保通りと交差する。大久保通りを少し新宿側に進むと牛込神楽坂駅がある。
早稲田通り(神楽坂通り) 早稲田通り(神楽坂通り) 

神楽坂上交差点を過ぎても更に坂道を上る。
早稲田通り(神楽坂通り) 早稲田通り(神楽坂通り) 

越前若狭祭の立て看板である。

江戸時代、小浜藩の江戸屋敷は神楽坂周辺(神楽坂を登りきった矢来公園のあたり)にありました。これは1628年(寛永5)に小浜藩主酒井忠勝が三代将軍徳川家光からこの地を拝領し、下屋敷としたのが始まりです。神楽坂通りは、酒井家の下屋敷と牛込御門を結ぶ約lkmの道を、忠勝の登城道として寛永年間に整備されました。
現在、矢来公園こは、「小浜藩邸跡」と記された石碑が建っています。
早稲田通り(神楽坂通り) 早稲田通り(神楽坂通り) 
早稲田通り(神楽坂通り) 赤城神社 早稲田通り(神楽坂通り) 赤城神社 

赤城神社は後伏見天皇の正安二年(西紀一三〇〇年)に群馬県赤城山麓大胡の豪族、大胡氏が牛込に移住の際本國の鎮守であった赤城神社の御分霊を、牛込早稲田村田島(今の早稲田鶴巻町、元赤城神社の所在地)にお祀リし、寛正元年に太田道灌が神威を尊び牛込台に遷移し奉り、其の後、弘治元年(西紀一五五五年)に至り大胡宮内少輔(牛込氏)の尊信特に深く現在の地に遷し奉ったものと伝えられてお ります
早稲田通り(神楽坂通り) 早稲田通り(神楽坂通り) 
早稲田通り 牛込天神町交差点前で左折 早稲田通り 牛込天神町交差点前で左折 

越前若狭祭の立て看板に書かれていた矢来公園の案内が交差点手前交番近くにあったので、立ち寄ることにした。
矢来公園 小浜藩邸跡 矢来公園 小浜藩邸跡 

越前若狭祭の立て看板に書かれていた公園である。
矢来公園 小浜藩邸跡 矢来公園 小浜藩邸跡 

 若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が、寛永五年(一六二八)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられました。
 もと屋敷内には、小堀遠州作になる庭園があり、蘭学者として著名な杉田玄白先生もこの屋敷内で生まれました。
矢来公園 小浜藩邸跡 矢来公園 小浜藩邸跡 

公園入口奥にこの碑がある。



 
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