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白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園H280216

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白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 向島百花園の沿革 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 向島百花園の沿革 

 本園は、江戸時代文化二年(一八〇五)頃、佐原鞠塢という粋人が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約三〇〇〇坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから、「新梅屋敷」として創設したのが始まりとされています。
 往時は、江戸中に百果園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも、弘化二年には、一二代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。
 その後、時代の変遷と共に、小倉家に所有権が移り昭和八年二月、国の「名勝」に指定され、時至って小倉氏の遺志(名勝永久保存のため)により、昭和十三年十月に東京市に寄付されました。百花園を受領した東京市は、衰退著しかった庭園を復旧し、昭和十四年七月八日制限公開にしています。
 この後、戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、多くの方々の努力のもと同二十四年に再び復元。その後、荒廃を余儀なくされましたが初代鞠塢の「群芳歴」を基本に植栽し、同五十三年十月文化財保護法により「名勝及史跡」の指定を受け、今日に至っています。
 この庭園の特徴は、芭蕉の句碑をはじめ二十数基の石碑と園全体の雰囲気が江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭にあります。また、初代鞠塢の頃から「詩経」や「万葉集」に因む歴史的草花を植栽し、春や秋の七草をはじめ、四季それぞれの植物が植え込まれ、野趣豊かな庭園となっています。
 江戸の文人墨客をはじめ庶民に愛され、今日まで受け継がれてきた、貴重な財産がこの「向島百花園」と言えます。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 園地整備工事のお知らせ 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 園地整備工事のお知らせ 

百花園前バス停の行き先案内に従う事ができなかった理由である

 この工事は向島百花園(下図参照)の外周塀改修工事です。
 完成は平成28年3月下旬を予定しております。
 皆様にはご迷惑をおかけすることもあるかと思いますがご理解とご協力をお願い致します。

 工事件名:向島百花圃一部改修工事
 工事場所:東京都墨田区東向島三丁目地内
 工事概要:外周塀改修工事138m
      樹木伐採・抜根一式
      新規植栽 一式  他
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 庭門 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 庭門 

庭門は向島百花園の南西角に位置しており、入園して北に直進して北西角、南東角と廻って見物する。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 隅田川七福神 福禄寿尊碑 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 隅田川七福神 福禄寿尊碑 

庭門から入ってすぐ右にある碑で、土方久元伯爵の書である。土方伯は七卿落ちに従った土佐藩士で、第1次伊藤内閣で農商務相になったのを始め、宮内相などを歴任した。
 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 

向島百花園が新梅屋敷として創建された、と言う来歴を彷彿させる梅園である。梅園としては湯島天神などが有名であるが、狭い敷地に密集したものではなく、広い園内に白梅、紅梅が程よい割合で植えられている。
 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 
 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 
 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 あずまや前広場 
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 御成座敷 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 御成座敷 
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 北東角からの眺望 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 北東角からの眺望 

この位置は明治通りの百花園前バス停にあたり、外周工事が行われていなければ右折して池沿いに歩いて百花園に向かうはずだった。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 しのぶ塚 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 しのぶ塚 

隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にももてはやさるる葱売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて昔忍ぶのは夏と名づけその故よし記しつくるは隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。

このような碑も多くあるが、塀際にはそれ以上の句碑が立てられている。殆どの人は浅学非才にして知らない
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 北辺の池沿いからの眺望 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 東辺の池沿いからの眺望 

さすがは634mの東京スカイツリーで、よく見える。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 月岡芳年翁之碑、日本橋石柱 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 月岡芳年翁之碑、日本橋石柱 

碑文は摩滅して読めないが、月岡芳年は幕末から明治前期に活躍した浮世絵師である。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 日本橋石柱 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 日本橋石柱 

日本橘の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各あるが、石橋時代の糢造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 北東角の眺望 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 南東角の眺望 
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 北東角にある百花園案内 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 南東角にある百花園案内図 

左が東の図で、現在地は左上角(南東隅)である。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 南東角からの眺望 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 南東角からの眺望 
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 萩のトンネル 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 萩のトンネル 
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 萩のトンネル 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 萩のトンネル 

向島百花園の名物である萩まつりは9月から10月にかけて行われ、特定の日には夜に雪洞の照明でライトアップする。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 萩のトンネル 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 萩のトンネル 

冬ということもあるが、トンネルの左右には切り株が並んでいるだけである。
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 庭門 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 庭門 
白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 隅田川七福神 白梅、紅梅が五分咲きの向島百花園 隅田川七福神 

入口(サービスセンター)の右脇に立てられている。福禄寿尊堂はあづまやの左にある。

 文化元年(一八〇四)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠塢が福禄寿を祭っているのを知り、この隅田川の柬岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を採し出した。そLて、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家案隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神のはじまりである。七福神の「七」という数は、陽を表わす奇数であって、古くから、めでたい数字とされている。七難即滅、七福即生、万姓安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七稲神初詣でのいわれである。



 
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