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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸、旧大隈重信邸 龍頭の大島桜 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸、旧大隈重信邸 龍頭の大島桜
龍頭のかたちをした珍しい大島桜で、一重咲きで白色、3月から4月にかけて満開を迎えます。関東以南の島々の海岸沿いから山地にかけて多く生育し、特に伊豆大島なとの伊豆諸島に多く生育することから、和名の由来となっています。丈夫で潮風にも強いことから庭木に利用されています。 |
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明治記念大磯庭園 左折して旧陸奥宗光邸へ |
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明治記念大磯庭園 右折して旧陸奥宗光邸へ |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴漁荘
陸奥宗光は紀州藩士で、第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るい、日清戦争の下関条約を調印した。爵位は伯爵である。
写真左は美貌と聡明さによって「ワシントン社交界の華」と呼ばれた後妻の 陸奥亮子で、新橋の元芸妓小鈴。右下は長男の陸奥広吉で、三人の写真を見た見物客は日本人に見えない、外人の写真みたいだ、との声が上がった。 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴漁荘
旧陸奥宗光 別邸
第二次伊藤内閣のもと、外務大臣として日本の外交を支えた陸奥宗光でしたが激務から持病の結核が再発し、明治27年(1894)に構えた大磯の別荘で療養生活を送りました。
明治27年(1894)からここで執筆した『蹇蹇録』は、日清戦争の開始から日清講和条約批准までの外交の過程を叙述した回想録で、陸奥の思想をよく伝えています。外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされていましたが、昭和4年(1929)に初めて公刊されました。
政界を引退した陸奥は大磯やハワイで療養生活を送りましたが、明治30年(1897)に他界しました。伊藤博文が大磯の滄浪閣に本籍を移した年のことでした。 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴漁荘
陸奥時代・明治27年(1894)
陸奥宗光は明治27年(1894)に大磯の別荘地を取得し、別荘を構えた。結核を患っていた陸奥は、晩年には治療のために大磯の別荘で過ごすことが多かった。
明治30年(1897)に陸奥が他界した後は古河家が取得し、古河家の別邸として使用した。
その後、大正12年(1923)の関東大震災で大破したため、大正13年(1924)〜14年にかけて古河虎之助が建て替え、以前の建物は足尾銅山の柏木平へ移設された。建て替えられた古河家別荘は「「聴漁荘」と名付けられ、現在まで古河家の別荘として使われてきた。 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴漁荘
現在
数寄屋造りの建物で、入口に「聴漁荘」の額が掲げられている。玄関を入って北側が書生室。南側の二間続きの和室が応接間兼主人室。中央の10帖と8帖は家族の部屋で、その西側が茶の間となっている。
家族部屋の北側には浴室があり、浴室には当時からシャワーがあった。また、南側の廊下から入り、板間の上を歩いて浴室に入れるなど、元祖海水浴の地、大磯らしい造りになっている。 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴漁荘
玄関にかかる「聴漁荘」の額
「漁の声を聴く荘」の意味。「学を漁り、聴く荘」の意味とも云われる。揮毫は円覚寺・大徳寺管長の太田晦巌。 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴漁荘 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴魚荘 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴魚荘 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸 聴魚荘
旧陸奥宗光別邸
【沿革と概要】
■明治27年(1984)、陸奥宗光別荘として建築
■明治30年(1987)、古河家が陸奥の死に伴い取得。
大正13年(1924)、関東大震災で大破したため改築。
以前の建物は足尾銅山の柏木平へ移設。
■平成30年(2018)8月まで古河電気工業株式会社の迎賓館として使用。
■木造平屋建て和風数寄屋造・東側10畳、8畳の二間続きが主室、書院造り。西側10畳、8畳は家族室。
■敷地面積:約26,400u(旧大隈重信敷地含む)
■建物面積:363u |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸の境の果樹園
旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸の境は塀や垣根はなく、果樹園である。 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸の境の果樹園 |
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明治記念大磯庭園 旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸の境の果樹園 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸
旧大隈邸庭園
大隈邸前の丘陵はなだらかに下り、海岸につなかっていました。明治30年の創建当時は樹木も低く、海との間に道路もないため、邸の前庭から海を眺めることができました。
大隈公は大磯邸で暮らした4年ほどの間に防風・防砂のための松を植えたと伝わっています。 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸
旧大隈重信別邸
【沿革と概要】
■明治30年(1897)、大隈重信が別邸として建築。
■明治34年;(1901)古河家が取得。
■木造平屋建て和風、平面はほぼ創建当時のまま、
屋根は改築され軽量化されていると思われる。
■16畳の富士の間、10量の和室の二間続きか主室、
書院造。
■中庭を挟んだ9畳の神代の間と6畳の二間続きは、
大隈の書斎として使われていた。
■敷地面積:約26,400u(旧陸奥宗光邸敷地含む)■建物面積:363u
この説明を読んで、旧陸奥邸と大隈邸の間に塀や垣根がなかった、とした説明に疑問が生じた。本来はあったが、明治34年に古河家が両邸を買い取り、古河家別邸とした時に一体化した可能性もあるためである。 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 大隈重信公の五右衛門風呂 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸 大隈重信公の五右衛門風呂
大隈重信公は風呂好きだったことで知られています。大隈邸の南に20メートルほど、丘を下ったあたりに四畳半くらいの浴室と離れがあったことが明治30年の「家屋位置及方位」に記されています。この五右衛門風呂は、その跡地近くから掘り出されたものです。
五右衛門風呂は鉄の風呂釜の下でたき木を燃やして湯を沸かす仕組みで、底は熱くなるため裸足で入ることができません。明治22年に襲撃に合い右足を切断している大隈公はこのころは義足で暮らしていました。
180センチもの長身であった大隈公は片足に下駄をはいて、小さくなりながら五右衛門風呂を楽しんでいたと思われます。
また、明治時代に大磯の海水浴場が設けられたのは医学的な療養のためでした。このころ、大隈邸と海岸は松林だけで直接つながっていました。邸から離れて海辺近くに浴室を設けたのは、海水温浴での治療のためだったとも推察されます。 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸
明治維新の後、築地の大隈邸には伊藤博文ら多くの元志士が集い論議を交わしていました。百ワットと称された大隈の明るく、力強い性格は、当時の日本を初めて照らしたアーク灯のように派閥や藩閥を超えて多くの人々を引きつけました。
大隈重信が大磯に別荘を構えたのは明治30年(1897)のことでした。大隈は大磯でもたびたび宴会を開きました。16畳の富士の間と隣の10畳をつないだ大宴会だったようです。
中庭を挟んだ東の棟は神代の間と呼ばれ、大隈の書斎として使われていました。神代の間に使われている神代杉は、杉が腐らずに半化石化した貴重なものです。
大隈別邸は、明治34年(1901)に大隈の手を離れ、古河家が購入して現在まで引き継がれてきました。
現在の建物は北側が増改築されていますが、富士の間や神代の間のある南側は、おおむね創建当時のまま保存されています。屋根は関東大震災の後に改築され軽量化されているようです。 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸
【沿革と概要】
■明治30年(1897)、大隈重信が別邸として建築。
■明治34年;(1901)古河家が取得。
■木造平屋建て和風、平面はほぼ創建当時のまま、
屋根は改築され軽量化されていると思われる。
■16畳の富士の間、10量の和室の二間続きか主室、
書院造。
■中庭を挟んだ9畳の神代の間と6畳の二間続きは、
大隈の書斎として使われていた。
■敷地面積:約26,400u(旧陸奥宗光邸敷地含む)■建物面積:363u |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸
明治30年頃
【概要】
明治期の旧大隈邸は、玄関を入った応接広間の南側に2階建ての土蔵が隣接していた。富士の間は書院風の部屋で、1間の床の間と付書院がある。富士の間の北側には中庭をはさんで部屋があったが、現在は縮小されている。
東側の居宅は神代杉をふんだんに使っていることから神代の間と呼ばれ、大隈の書斎となっていた。神代の間には片足をなくした大隈の体に配慮して、暖炉が備えられている。
当時の浴室は土蔵の南側にある。縁側から下駄をはいて風呂場に行き、海を見ながら疲れを癒やしたのであろう。 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸
【概要】 出典:『大磯のすまい』大磯町教育委員会
現在の建物は明治の土地台帳と比べてみると、北側の水回りの部分が増改築されているが、居室部分はほぼそのまま残されている。
玄関の脇は応接室となり、富士の間の南側の広縁は改築時に広げられている。また、神代の間の暖炉は床の間となっている。
中庭の北側は縮小され、東側に浴室が設けられている。 |
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明治記念大磯庭園 旧大隈重信邸
玄関で、ここからもと来た道を戻り、海岸沿いの庭園を見物していく。 |