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東京メトロ 有楽町線 護国寺駅
護国寺駅〜満開の護国寺〜不忍通り〜目白通り〜学習院〜学習院椿の坂(西坂)〜神田川(神高橋〜高戸橋))〜満開の神田川(高戸橋〜中之橋)〜都電荒川線 早稲田駅〜早稲田大学界隈(大隈通り〜大隈庭園)〜早稲田駅
【撮影記録】
平成28年 4月 6日 晴れ
10:40〜12:45 10,200歩(概算 6.6km 地図上の距離 5.5km)
地図システムの機能制約で護国寺境内や早稲田大学界隈などの細かい経路は指定できず、距離に誤差が出る。
今年は桜にとって異常気象であり、満開宣言が出てから1週間雨が振り寒い日が続いた。そのため、1週間経ってやっと晴れた日に歩いたが色は白っちゃけては、いたものの、ほぼ満開状態だった。 |
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不忍通り 護国寺前交差点 護国寺 仁王門
護国寺は真言宗豊山派の大本山。天和元年(1681)、徳川5代将軍綱吉が生母桂昌院の願いにより創建し、後に将軍家の武運長久を祈る祈願寺となった。元禄時代の本堂、近江三井寺より移築された月光殿は、ともに国の重要文化財に指定されているほか、仁王門、惣門など創建当時を偲ばせる堂宇が数多くある。 明治期以降は著名人等の墓所となり、三条実美、山縣有朋、田中光頭、大隈重信などが眠る。 |
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不忍通り 護国寺前交差点 護国寺 仁王門
八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代が下がると考えられる。 正面(南側)の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
護国寺の山門の朱の丸柱 強きものこそ美しくあれ (窪田空穂) |
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護国寺 表参道 |
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護国寺 表参道 境内案内図 |
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護国寺 表参道 水屋、不老門
不老門への階段の両脇に水屋があり、その手前に満開の桜がある。 |
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護国寺 表参道 水屋
水屋手前の枝垂れ桜は満開である。 |
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護国寺 表参道 水屋
唐銅蓮葉形手洗水盤 一対二基
この手洗水盤は、江戸幕府五代将軍徳川綱吉公の御生母桂昌院殿一位尼公より御寄進である。 当山の縁起伝承と明治末期から昭和初期の鋳金家・金工史家香取秀真氏の調査記録に、元禄十年(一六九七)頃に鋳造され、江戸鋳物師椎名伊予良寛の製作と記載されている。 この手水舎は、江戸時代後期に刊行された「江戸名所図会」にも描かれており、江戸元禄期から明治大正期には当山境内の湧水を利用する大変珍しい自噴式手洗水盤でした。 この度、篤信の御方より浄財を賜り改修復元する事が出来ました。 元禄期より観音さまの加護を求め、この参道を歩む大勢の参詣者に親しまれた手洗水盤にて身心を清め、御本尊さまへお参り下さい。 |
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護国寺 表参道 水屋 |
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護国寺 表参道 不老門 |
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護国寺 本堂(重要文化財) |
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護国寺 本堂(重要文化財) |
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護国寺 境内 不老門横 満開の枝垂れ桜 |
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護国寺 境内 不老門横 棋聖宗印之碑
昭和11建 将棋の11世名人八代目伊藤宗印(将棋、最後の家元)の顕彰碑。清浦奎吾題、松平康国撰、月出東山書
碑文は摩滅していて読めなかった。 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所
有名人の墓は観光客の目にさらされないよう、奥まった所にあるか、反対に案内板を立てているかが普通である。護国寺は案内板は無いが、本堂の右脇に固まり、いかにも有名人の墓、と言う感じで並んでいる。 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 山縣有朋の墓
5年前(平成23年)の東日本大震災の1ヶ月後に訪れた時には灯籠などが倒壊していたが、復旧している。 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 田中光顕の墓
土佐藩出身、宮内相などを歴任した伯爵で享年97歳である。 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 大隈重信の墓
椿山荘を造った山県有朋は、生前大隈重信が創建した早稲田大学が目の前にあることが不満だったと言われる。その二人の墓が間に田中光顕の墓があるものの隣り合わせというのも面白い。 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 大隈重信の墓
東日本大震災直後には山県有朋同様灯籠が倒壊、散乱していた。 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 大隈重信の墓 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 三條実美の墓 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 三條実美の墓
三條實美(一八三七−九一)は幕末・明治前期の公卿・政治家です。贈右大臣三條實萬の第四子として生まれ、安政元年(一八五四)に家督を継ぎます。父の影響もあり尊皇攘夷派公卿として活躍します。文久三年(一八六三)八月一八日の政変により京都を追われ、一時長州へ下ります(七卿落ち)。
第一次長州征征伐の慶応元年(一八六五)に太宰府に移り、同三年(一八六七)の王政復古により京にもどります。明治政府の副総裁などの要職に就きヽ明治四年(一八七一)から廃止されるまでの明治一八年(一八八五)まで太政大臣に任じられます。明治二四年(一八九一)五五歳で病死します。 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 三條実美の墓 |
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護国寺 境内 本堂右 明治の元勲墓所 三條実美の墓
墓には「実美」の字はなく、内大臣正一位大勲位三條公之墓となっている。 |
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護国寺 境内 本堂 明治の元勲墓所
三條実美の墓所から見た風景で、左の桜並木手前に明治の元勲墓所がある。 |
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護国寺 境内 本堂左 月光殿(重要文化財)、多宝塔
右の月光殿は、近江三井寺より移築された。 |
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護国寺 境内 本堂 不老門から見た表参道、仁王門 |
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護国寺 表参道 仁王門裏 大本山護国寺の縁起
真言宗 豊山派 大本山 護国寺
当寺の創建は天和元(一六八一)年二月七日、五代将軍徳川綱吉公の生母、挂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護国寺と称し寺領三百石を賜ったことに始まる。 現在の観音堂(本堂)国指定重要文化財は、元禄十年(一六九七)年正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余の工事日数でこの大造営が完成し、同年八月四日落慶式が挙行された。 後に六臂如意輪観世音菩薩(現本尊秘仏)が安置される。 元禄時代の建築技術の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞賛される。
もろもろの くのうをすくう 観世音 大悲の恵み 尊うとかりける
月光殿 国指定重要文化財は近江(大津市)の三井寺の塔頭日光院の客殿を移築した桃山時代の建築で書院様式を伝えるものとして貴重な建造物である。平成二十五年十一月、月光殿文化戝保存修理工事が完了する。
護国寺の茶席 境内には月窓軒、化生庵、艸雷庵、不昧軒、円成庵、宗澄庵等々の八席それぞれ数奇を凝らした茶席がありその基を築かれたのは明治昭和初期にかけて再興に寄与された高橋箒庵翁の尽力の賜物である。 |
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護国寺前交差点で右折、不忍通りへ
護国寺前交差点は丁字路で、交差点を出て直進すると音羽通りとなって江戸川橋に向かう。 |