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掃部山公園 正面出入口
正面出入口にある掃部山公園の案内図から、まず北西の遊具広場に向い、隣接する日本遊園を経て井伊直弼銅像のある広場に出ることとした。 |
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掃部山公園 正面出入口から右の坂を下る |
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掃部山公園 満開の桜が美しい遊具広場
6年前(平成23年)に訪れた時には掃部山公園の北口の岩亀横丁口から入り、遊具広場に出て坂を上って正門出入口まで行き、そこから銅像広場に向かった。 |
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掃部山公園 満開の桜が美しい遊具広場
左はピンクの花のソメイヨシノ、右側は白い花の大島桜である。 |
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掃部山公園 満開の桜が美しい遊具広場
現在掃部山公園になっている土地は、明治初期の新橋横浜間の鉄道敷設に携わった、エドモンド・モレルなどの鉄道技師の官舎が建てられていたほか、ここの地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから、鉄道山と呼ばれていました。 その後、明治十七年に本市の開港に縁の深い井伊直弼の記念碑建立の際に、横浜正金銀行松井十三郎ら旧彦根藩士により買い取られ、井伊家の所有となりました。掃部山公園内の日本庭園などは井伊家所有の時代に築造されたものと考えることができます。その後、大正三年にこの土地が井伊家より本市に寄贈され、掃部山公園として公開されました。 公園の南西側の一角にある能楽堂は、平成八年三月に完成したもので、横浜市の有形文化財に指定されている旧染井能舞台を館内において移築・復元しているものです。この染井能舞台は、もともと明治初期に加賀藩主だった前田斉泰公が東京根岸の自邸に建てたもので、後に東京駒込の染井に移築され、戦後には能楽再興の本拠地となっていたものです。 このように明治以来の長い歴史と文化的要素を有する掃部山公園では、地域の人達が中心となって、これらの歴史とゆかりの深い薪能や虫の音を聞く会などのお祭りが、催されるなど、地域の人々に親しまれています。 |
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掃部山公園 満開の桜が美しい遊具広場
広場一面に花びらが敷き詰められている。 |
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掃部山公園 遊具広場から日本庭園には行けず
掃部山公園の案内図によると、日本庭園に階段を使って行けるはずだが実際には柵があったり、鎖で閉鎖されて行くことが出来ない。止むを得ず、掃部山公園の正門出入口まで戻ることにした。 |
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掃部山公園 遊具広場から日本庭園には行けず
理由は分からないが、階段を上った所は鎖で閉鎖されている。 |
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掃部山公園 正門出入口に戻る |
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掃部山公園 正面出入口から左の坂を上る
階段を上ると銅像広場に出るが、通り過ぎて先に進む。 |
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掃部山公園 銅像広場
満開の桜で囲われた銅像広場の奥正面に井伊直弼銅像が見える。 |
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掃部山公園 銅像広場
井伊直弼銅像
この銅像は昭和29年に建立された2代目で、初代は明治42年に建立されています。
旧彦根藩有志が旧藩主であり横浜港開港の立役者である井伊掃部守直弼(いいかもんのかみなおすけ)の功績を顕彰するために明治17年にこの地一帯を購入し、開港50周年記念にあたる明治42年に銅像を建立し、あわせて左手にある水泉も寄贈したものです。
とくに花崗岩でできた銅像の台座は歴史的価値があるとして水泉と一緒に平成23年9月1日に横浜市歴史的建造物の台帳に登録されています。
台座の設計は赤レンガ倉庫や横浜正銀行本店別館も設計した妻木頼黄です。 |
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掃部山公園 銅像広場の右の道を下る
銅像広場には入らず、広場入口の右手にある坂を下り日本庭園に向かう。 |
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掃部山公園 銅像広場の右の道を下る |
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掃部山公園 銅像広場の右の道を下る 展望台からの風景
下り坂の途中に展望台があり、掃部山公園の北側沿いのサクラ並木を楽しむことが出来る。 |
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掃部山公園 銅像広場の右の道を下る 展望台からの風景 |
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掃部山公園 銅像広場の右の道を下る |
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掃部山公園 銅像広場の右の道を下る 飯岡幸吉歌碑 |
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掃部山公園 銅像広場の右の道を下る 飯岡幸吉歌碑 |
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掃部山公園 日本庭園 池、灯籠 |
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掃部山公園 日本庭園 四阿(休憩所) |
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掃部山公園 飯岡幸吉歌碑手前の標識で右折
日本庭園への下り道を戻り、飯岡幸吉歌碑手前の標識で右折して能楽堂、銅像広場に向かう。 |
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掃部山公園 飯岡幸吉歌碑手前の標識で右折、坂を上る |
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掃部山公園 突き当りの能楽堂で左折 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 仙台枝垂れ桜
井伊直弼銅像のある広場の南西隅にある仙台枝垂れ桜の前に出る。
仙台枝垂れ桜は、西区制60周年、掃部山公園開設90週年の記念植樹である。 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 仙台枝垂れ桜 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 仙台枝垂れ桜 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 仙台枝垂れ桜 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 開花し始めた八重桜 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 井伊直弼銅像
明治四二年七月、横浜開港五〇年記念に際して、旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老井伊掃部頭直弼の銅像を戸部の丘に建立し、その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。 当時の銅像は、落田文蔵、岡崎雪声によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さは約三・六メートルを測リました。
井伊直弼は東京の豪徳寺に墓がある。 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 井伊直弼像 台座及び水泉
水泉
江戸時代までは、海に面した高台で不動山と呼ばれていました。 明治初期、日本初の鉄道開通(新橋・桜木町間)に携わった外国人鉄道技師の官舎が建てられ、開通後も鉄道用地として利用されたことから、「鉄道山」と呼ばれていました。 明治17年に旧彦根藩士らが買い取って井伊家の所有となり、明治42年の横浜開港50周年記念に井伊直弼の銅像建立と共に、石造りの水泉も寄贈されました。 大正3年に井伊家より横浜市に寄付され、掃部山公園として整備されました。公園からは海を見下ろすことができ、眺望が良い景勝地としての人気も高かったようです。 大正12年の関東大震災では、全園が崩壊しましたが、公園が防火帯となり、近隣住民の避難場所ともなりました。 |
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掃部山公園 銅像広場(井伊直弼銅像広場) 水泉
「明治四十二年七月子爵井伊直安寄付」と書かれている。
井伊家は、譜代35万石の大名だったが、桜田門外の変で10万石を減封された。この処分に対する不満から官軍東征の際に新政府軍に加わったと言われる。本来は朝廷や西国大名の押さえであった井伊家だった。また叙爵でも35万石だったら侯爵だったはず、との不満も出ていた。この点に関しては現石基準であり得なかった、との説もある。 |