|
団子坂通り 諏訪台通り(初音のみち)交差点
名前はないが、谷中霊園入口交差点の次の交差点である。
交差点角の中華料理店が目安で、右折すると朝倉彫塑館や長安寺(狩野芳崖墓)がある諏訪台通り(初音のみち)を経て、山門に上野戦争時の弾痕がある夕やけだんだん坂上の経王寺に出る。 |
|
団子坂通り 永久寺 仮名垣魯文墓 |
|
団子坂通り 永久寺 仮名垣魯文墓 |
|
団子坂通り 永久寺 仮名垣魯文墓
幕末・明治時代の戯作者、新聞記者。本名は野崎文蔵、号を鈍亭。猫々道人などといった。文政十二年(一八二九)江戸京橋の生まれ。長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬や十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入った。万延元年(一八六〇)「滑稽富士詣」を書いて世に出た。
明治時代になると、当時の文明開化の世相を風刺した「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」等の作品を発表、明治開花期の花形作家となった。のち、ジャーナリズムの世界に転じ、「横浜毎日新聞」「仮名読新聞」「いろは新聞」「今日新聞」などに関係し軽妙な文章で活躍。明治十二年発表の「高橋阿伝夜叉譚」は世上を賑わせた。明治二十七年(一八九四)十一月、六十六歳で没し、当寺に葬られた。
墓石には、聖観音を線刻した板碑(十三〜十六世紀頃に追善のため造られた供養塔)がはめ込まれている。
本堂右側の山猫めをと塚は、夫婦の飼猫の供養の碑で、福地桜痴の碑文が刻されている。 |
|
団子坂通り 永久寺 山猫めをと塚
本堂横にあり、その右に仮名垣魯文の墓がある。 |
|
団子坂通り 三崎坂上 東西めぐりんバス停 #10 三崎坂上 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵 山岡鉄舟 墓
江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(一八三六)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として、江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である・父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(一八五二)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内小輔などを歴任した。明治二十一年(一八八八)七月十九日五十三歳で死去した。
山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。
幕末三舟の高橋泥舟は義兄に当たる。 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵 三遊亭円朝 墓
初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(一八三九)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(一八五五)十六歳で真打 ちとなる。芝居噺で人気を博し「真景累ケ淵」や「怪談牡丹燈籠」「塩原 多助一代記」などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和 歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、 自らの設計監督によって内藤新宿では、数奇屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治三十三年(一九〇〇)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵
門の右手に山岡鐡舟居士之賛の碑がある。 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵 山岡鐡舟居士之賛
鐵舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年に建てられた碑で、上部に有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」と題され、碑文には浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。 剣は一刀流を極めて無刀流を開き、禅は天竜寺滴水和尚に受け、書は弘法大師入木道の伝統を継いだ、剣・禅・書の大家である鐵舟を讃える碑であり、その才質の比類なきことを伝え、国を思う心の深いことを記す。鐵舟が在家の仏教者であったことから維摩居士に比されている字句も見える。
右手奥の碑は三遊亭圓朝翁碑である。 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵 三遊亭圓朝翁碑
明治三十九年、圓朝七回忌に際して建てられた追悼碑で、生前愛顧を受けていた明治の元老井上馨侯爵の書による。 碑文に「挂剣」(死者に対し信を守ることのたとえ)と刻まれていることからも、二人の交情が一方ならぬものであったことがうかがわれる。 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵 三遊亭圓朝翁碑 |
|
団子坂通り 三崎坂 全生庵 山岡鐡舟居士之賛 |
|
団子坂通り 三崎坂
「三崎」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永二年(一七七三)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、三〇年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。 |
|
団子坂通り 三崎坂 |
|
団子坂通り 三崎坂 谷中小学校
一見和風の公民館に見えるが、小学校である。 |
|
団子坂通り 三崎坂 旧町名 谷中三崎町
「三崎」のいわれは諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向っていることから名付けられたとする説が一般的である。
本町は、元禄年間(一六八八〜一七〇四)のころすでに谷中村からわかれ、町屋を形成していた。その後、明治四年(一八七一)に南北二町にわかれ、谷中三崎町南側および谷中三崎町北側となった。しかし、同六年には付近の大円寺をはじめとする六ヵ寺を合併するとともに南北二町は再び一つになり、もとの一町にもどった。
本町の中心を東西に通る坂が三崎坂。谷中には、由緒ある寺院が数多くあるが、この三崎坂の途中に大円寺がある。ここには江戸時代に浮世絵画家として活躍した「錦絵開祖 鈴木舂信」の碑が建っている。 |
|
団子坂通り 谷中よみせ通り入口交差点
名称のない交差点なので分かりにくいが、すぐ先に団子坂下交差点が見える。 |
|
団子坂通り 団子坂下交差点で不忍通りを渡る
渡ってすぐ左に東京メトロ千代田線の千駄木駅がある。 |
|
東京メトロ 千代田線 千駄木駅 |