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松陰神社通り 松陰神社 参道入口
松陰神社通りの左手に整備された神社の参道が見える。入口前の道を左折して直進すると国士舘大学、同付属高校、世田谷区役所がある。 |
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松陰神社通り 松陰神社 参道入口 |
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松陰神社 参道 松陰神社の由緒 |
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松陰神社 参道 松陰神社の由緒
松陰神社 ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰 先生)
松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて刑死されました。その四年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。 明治十五年(1882)十一月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。 |
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松陰神社 参道 旧鳥居柱
松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総重量約20トン程であった。平成23年10月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。
「明治四十一年十月五十年祭典」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの。 |
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松陰神社 参道 旧鳥居柱 |
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松陰神社 参道 神楽殿、社殿
吉田松陰は明治維新の長州藩の元勲たちの心の拠り所でもあり、敷地は意外と広い。 |
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松陰神社 参道 吉田松陰先生像
吉田松陰先生像
(鋳造:平成25年ブロンズ)
明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。
松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。 |
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松陰神社 参道 吉田松陰先生像 |
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松陰神社 参道 社殿 |
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松陰神社 参道 社殿前 明治百年祭記念碑
昭和四十三年四月二十七日の日付が記されている。 |
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松陰神社 参道 社殿脇 色々な種類の絵馬
普通絵馬はその年の干支だけが多いが、松陰神社の絵馬は松蔭の図や犬の絵など数種類がある。 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア
4年前(平成26年)に来た時は萩の松下村塾の模造の建物しかなかったが、門や垣根で囲われた一画が出来ており、色々な碑や展示物が設けられている。 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾(模造) |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松蔭先生五十年祭記念碑、松蔭先生百年祭記念碑
記念碑は今まで見たことはないので、境内の何処かに建立されていたものをこの一画に移したものと思われる。 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾案内
松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。
塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄瑞、高杉晋作、野村靖、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。
本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾〔模造〕 講義室
今から約50年ほど前の学生時代に萩を訪れた際、松下村塾を見物したが、小汚い小屋にしか見えなかった。今は様変わりしているとは思うが、少なくとも松陰神社の模造された建物のようにきれいではなかった。 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾〔模造〕 松下村塾での教育
松下村塾での教育
松下村塾聯(松下村塾の床の間に掲げられていた言葉)
万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。
一己の労を軽んずるに非らざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。
大意:多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になり得るだろうか。
自分の労苦をいとうして人々の安らかな生活を築くことができようか。決してできない。
萩の松本村にあったということで松下村塾と名付けられた塾で1856年8月頃から1858年末までの二年半程の期間、松陰先生は塾生に教育を施しました。
教育の目的は「君臣の義」 (君主と臣下の間で守るべき正しい道)
「華夷の弁」 (日本と外国との違いを明確にすること)
「奇傑非常の人」(人並み外れた優秀な人材)
を育むことてした。身分に関係なく誰ても入塾でき、先生は塾生それぞれをよく観察、記録し、そこて気付いた大切なことは手紙にして渡しました。先生が手を加えて正していく教育ではなく、自分て気づかせ、個性を生かす心の通い合う教育でした。塾で学んだ塾生は総勢九十名前後と言われており、彼らの活躍あって現在の日本があるのです。 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾〔模造〕 講義室 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾〔模造〕 塾生控室 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松陰先生像 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾(模造)
松陰先生の叔父である長州藩士の玉木文之進が、天保13年(1842)萩に寺子屋を開き、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。玉木氏が公務多忙の為、塾は自然消滅しましたが、その後、久保五郎左衞門(松陰の外叔父)が塾主となり復活し、安政4年(1857)まで引き継ぎました。更に、松陰先生が再投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏や兄の杉梅太郎らによって断続的ながら明治25年(1892)頃まで続きました。
松陰先生は、安政2年(1855)26歳の冬に出獄(米艦に乗船を企て投獄されていた)してから、実家である杉家で親戚の子弟等に教育をはじめ、翌年の夏頃には親戚以外の者も通ってくるようになりました。
しだいに塾生が増えたため、安政4年(1857)11月5日には杉家内の小屋を補修した八畳一間の塾舎が完成。松陰先生は塾に起居し、塾生に対し師弟同行の実践的教育を行いました。さらに塾生が増加して手狭になったので、安政5年(1858)3月、十畳半の増築が行われました。松陰先生が塾生に教育を施したのは、僅か2年半程でありましたが、薫陶を受けた総勢90名ほどの塾生からは、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていきました。当神社にある模造松下村塾は、昭和13年12月に隣接する国士舘校内に松陰先生顕彰のため建築されたものです。当時、すべての建築材料を萩で集め、東京へ移送して建築され、木材、瓦などは幕末期の毛利藩代官屋敷の古材が使用されました。(現在でも建材の多くは当時のものが残っています。)
その後、昭和16年に国士舘から当神社に寄贈され、境内の鳥居脇へ移築。平成8年に境内整備のため、現在の場所に移築。平成28年には維新150年記念事業の一環として約8ヶ月をかけ保存修繕工事を行いました。 |
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松陰神社 社殿左横 松下村塾エリア 松下村塾(模造) |