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JR 中央線快速 荻窪駅 北口
【撮影記録】
平成22年 5月 14日 晴れ後曇り
10:30〜14:25 15,600歩(昼食15分)(概算 10.9km)
荻窪から吉祥寺まで、地区の総鎮守ではあるが、立派な神社が多い。荻窪駅近くには地名の由来ともなった萩寺 光明院があり、これらの寺社や善福寺池を巡ることとした。そのため、中央線の営業距離の倍の距離を歩くことになった。 |
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荻窪駅 北口風景
北口前のローターリーの先に青梅街道が走っている。 |
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青梅街道を西進
荻窪の地名の由来になった萩寺 光明院に行くため、青梅街道に出てすぐの西友が入っているタウンセブンの先で左折する。 |
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青梅街道 タウンセブン脇で左折、白山通り商店街へ
信号はなく、西友が入っている駅前のタウンセブンの角を曲がる。
白山通りと言っても水道橋、巣鴨を通る旧中山道ではなく、小さな商店街である。名前の由来は荻窪白山神社に因む。 |
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白山通り商店街を南西に進む |
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白山通り商店街 荻窪白山神社
正面に中央線の線路が見え、その手前に荻窪白山神社がある。これで「白山通り」」の由来が分かった。 |
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白山通り商店街 荻窪白山神社 |
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白山通り商店街 荻窪白山神社
この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。
下荻窪村が中世に村をっくっていたことは、宝徳三年(一四五一)の上杉家文書や、昭和五十四年に荻窪三丁目三十三番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知られます。
当社の起源は、社伝によると文明年間(一四六九〜一四八六)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉斎したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたといわれます。
当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思銚に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。
その萩もかっては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に一株残っているだけになりました。昭和四十三年の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が、たくさん出てきたといわれます。
長い参道で、環八沿いの荻窪白山神社北交差点まで続く。 |
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中央線の線路沿いを西進 |
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環八地下道の先に萩寺 光明院
JRの線路の下を環八が走り、線路沿いの道の先に「荻窪地名発祥由来の寺」と書かれた大きな看板が目に付く。 |
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萩寺 光明院
慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(七〇八)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝期にさかのぼるものと考えられます。
今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。
本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。
なお、嘉永三年(一八五〇)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたがヽ明治二十一年(一八八八)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。 |
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萩寺 光明院 |
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萩寺 光明院 |
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萩寺 光明院
6年前に中野から西荻窪まで散策するイベントに参加したが、この時は南側からJR線路の地下道をくぐってきた。この場合は寺との間にフェンスがある線路沿いに萩の道という小道を歩くため、外から見るだけだった。萩の道は線路を挟んで、南側から北側に抜ける生活道路であるが、門前の横に出口がある。注意書きを見ると、境内にみだりに入って迷惑をかけられることを防ぐ苦肉の策のようである。 |
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萩寺 光明院前で左折、環八地下道沿いに北上 |
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環八通り 荻窪白山神社北交差点 |
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環八通り 荻窪白山神社北交差点の荻窪白山神社
萩寺 光明院から100m以上北にある交差点で、地図では神社の本殿があるはずだが、コンクリート塀で入ることはできなかった。 |
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環八通り 四面道交差点で左折、青梅街道へ
右折すると荻窪駅に向かう。 |