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代官町通り 紀伊国坂 東京国立近代美術館
代官町通り
江戸時代の始め、このあたりは関東総奉行内藤清成の屋敷となり代官町と呼ばれた。その後、享保16年(1731年)に八代将軍吉宗の次男徳川宗武(田安家)、宝暦8年(1758年)に九代将軍家重の次男徳川重好(清水家)がそれぞれ上屋敷を与えられた。昭和42年に整備され北の丸公園となった。 |
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代官町通り 紀伊国坂 裸木のサクラ並木 |
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代官町通り 紀伊国坂 裸木のサクラ並木
この坂を紀伊国坂といいます。「紫の一本」という本には「紀伊国坂、松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。今の灰小路の所、もと尾張紀伊の御屋敷ありし故なり」とあり、「再校江戸砂子」には「紀伊国坂、竹橋御門へくだる小坂をいう。むかし此所に尾紀の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり」とかかれています。 |
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代官町通り 紀伊国坂 裸木のサクラ並木 |
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代官町通り 紀伊国坂 国立公文書館 |
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代官町通り 紀伊国坂 北の丸公園入口
代官町通りを挟んで反対側に北桔橋門があり、東御苑の入口があるが閉鎖されている。 |
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代官町通り 北の丸公園、東御苑、皇居案内図
左が皇居で、中央上が北の丸公園、下が東御苑である。 |
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代官町通り 首都高 都心環状線 代官町インター
左に首都高都心環状線の代官町入口があり、右の木立ちの後に旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)がある。 |
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北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館) 入口 |
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北の丸公園 北白川宮能久親王銅像
旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)前の木立の中にある。像手前の案内には書かれていないが、上野寛永寺の輪王寺宮として上野戦争で擁立され、敗北後に蟄居の処分を受けている。
弘化四年(一八四七)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。嘉永元年(一八四八)青蓮院宮御相続、安政五年(一八五八)輪王寺宮御相続、公現法親王(俗名能久)と称せられ、上野寛永寺の門跡となられる。 明治三年(一八七〇)還俗して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅令によリプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治十年御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同五年白川宮を御相続遊ばれた。 同十七年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第一旅団長、参謀本部御出仕。同二十五年陸軍中将に任ぜられ、第六・第四師団長を御歴任、同二十八年一月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘の地で疫病に罹らせ給い、明治二十八年十月二十八日(一八九五)台南に於て薨去遊ばされた。御年四十九歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。 |
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北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 |
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北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)
旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)は、残念ながら毎週月曜日の休館であった。赤レンガが青空に映えた美しい建物である。
【国指定重要文化財】
明治43年(1910)に完成しました。陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風で、明治洋風建築としては代表的な存在となっています。 関東大震災や弟二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめています。 昭和52年に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれかわりました。 |
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北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎から千鳥ヶ淵緑道へ |
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北の丸公園 千鳥ヶ淵緑道 突き当りで左折 |
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北の丸公園 千鳥ヶ淵緑道 中の池沿いの散策路
中の池の向いには大芝生広場がある。 |
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北の丸公園 千鳥ヶ淵緑道 中の池沿いの散策路 |
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北の丸公園 千鳥ヶ淵緑道 中の池沿いの散策路
中の池が終わると大芝生広場が間近になる。 |
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北の丸公園 千鳥ヶ淵緑道 日本武道館前で左折
遊歩道を歩いてくると左に駐車場があり、正面に日本武道館、右にレストハウスが出てくる。 |
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北の丸公園 千鳥ヶ淵緑道 修理中の田安門
工事のためとはいえ、枡形門のきれいな田安門が見られないのは残念である。 |
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北の丸公園 千鳥ヶ淵緑道 修理中の田安門 |
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北の丸公園 田安門前のサクラ並木の土橋を下る |
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田安門交差点で靖国通りを渡り、靖国神社へ
交差点の歩道橋を渡って進むと靖国神社の大鳥居(第一鳥居)に出る。 |