|
深川公園を西進 |
|
深川公園を西進 |
|
深川公園を西進 |
|
深川不動尊 右折して表参道 「人情深川御利益通り」へ
右折して階段を上り旧本堂前の広場に向うが、参拝する人々の長い列ができている。 |
|
深川不動尊 階段を上り旧本堂前の広場へ
深川不動尊は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878)当地に遷座され、同14年、堂宇が建立されました。
元禄(1688〜1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。
参拝となると時間がかかるため、列の右を歩いて広場に向う。 |
|
深川不動尊 旧本堂前の広場 いくつも設けられている臨時御札場
広い旧本堂前の広場の数ヶ所にテントを張って臨時御札場が造られている。 |
|
深川不動尊 旧本堂前の広場
深川不動尊は元禄16年(1703年)に成田山新勝寺の別院として建立された。当時不動尊信仰が盛んで、成田山に行かずとも江戸で参詣したいとの町民の希望がかなった。 |
|
深川不動尊 旧本堂前の広場 いくつも設けられている臨時御札場
富岡八幡宮は一昨年末の前宮司刺殺事件の影響で参拝者が激減したと言われるが、そのせいだけではない御札場の品数の多さ、賑わいぶりは大きな差がある。
すでに富岡八幡宮で新年の破魔矢を買っており、失敗した、と思った。 |
|
深川不動尊 旧本堂前の広場 常設の御札場 |
|
深川不動尊 開運出世稲荷
ご本尊? 枳尼天(深川不動尊は、口篇に毛の横棒3本が2本の「?」枳尼天とするが、表示できない。 荼枳尼天 だきにてん)尊は、大本山成田山新勝寺の境内に御座す「成田山出世稲荷」のご分霊を勧請奉祀いたしました。社殿は檜皮葺総檜造り向拝及び各部分には見事なまでの彫刻を施した日本建築の粋凝らし逸作で、社殿の周囲には開運招福を願うご信徒の奉献によるのぼり幡がはためき、境内は活況を呈しております。例大祭は毎年2月15日に、開創紀念大祭は毎年9月15日に執り行われ、群参ご信徒により一層の賑わいを見せます。
参道には? 枳尼天(荼枳尼天)の赤い幟が立ち並ぶ。 |
|
深川不動尊 開運出世稲荷の左奥に設けられたお帰り口
酉の市における鷲神社にも設けられているが、大きな寺社では参拝の混雑による混乱を防ぐため、入口とお帰り口とを分けている。
旧本堂前広場には開運出世稲荷の他に様々な寄贈石像群があるが、臨時お札場や多くの参拝客で近付けない。 |
|
深川不動尊 旧本堂前の広場 いくつも設けられている臨時御札場
商売繁盛の福よせ熊手も数種類あり、買っていく人も多い。富岡八幡宮で買った最高額の破魔矢も、こちらのほうが見栄えが良いのが無念である。 |
|
深川不動尊 表参道 「人情深川御利益通り」へ |
|
深川不動尊 表参道 「人情深川御利益通り」へ
階段を降りてすぐ右折して深川公演に向かう。 |
|
深川公園(旧 旧富岡八幡宮別当寺 永代寺跡地)
深川公園は深川不動の西側に隣接する公園で、往時は深川不動も含めて富岡八幡宮の境内だったことがうかがわれる。
富岡八幡宮の別当寺であった永代寺は、明治の神仏分離令により廃寺となった。その跡地は深川不動尊となり、江戸六地蔵は破壊された。
明治29年に旧永代寺の塔頭だった吉祥院が永代寺の名前を継承して現在に至る。表参道の右手にある。 |
|
深川公園 富岡八幡宮別当 永代寺跡
長盛法印が寛永四年富岡八幡宮を建立しその別当となり その坊舎を建て永徳二年京都仁和寺から永代寺の寺号を与えられ明治元年に寺が廃された |
|
深川公園 富岡八幡宮別当 永代寺跡 |
|
深川公園 明治卅七八年役戦死者忠魂碑(日露戦争忠魂碑)
男爵渋沢栄一謹書で東京のあちこちで見られる忠魂碑で、日清戦争のものはほとんど無いことからも、いかに日露戦争が大きな影響を及ぼしたかが分る。 |
|
深川公園 追悼征清戦死者之碑(日清戦争忠魂碑)
日清戦争の忠魂碑は川崎大師など稀にしか見ない。 |
|
深川公園(旧 旧富岡八幡宮別当寺 永代寺跡地)
左の高架は首都高9号深川線である。 |
|
深川公園 西口から出て清澄通りに向う |
|
深川公園 西口から出て清澄通りに向う
いかにも下町、という雰囲気が漂うもつ焼き店などが並ぶ一角がある。 |
|
深川公園 西口から出て清澄通りに向う |
|
清澄通り 赤札堂 深川店
赤札堂は東京に展開されている食品スーパーである。 |