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川崎大師 大山門(遍照門)
この大山門は昭和五十二年(一九七七)、当山開創八百五十年記念として建立されました。
山門は、堂塔、伽藍を囲む浄域結界の総門であり、この大山門の四方には、仏法の守護尊として京都東寺の国宝・四天王像を模刻した鋳造した持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)が奉安されています。
現在楼上には、信徒各位からの写経・写仏が納められています。 |
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川崎大師 大山門(遍照門) |
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川崎大師 大本堂 |
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川崎大師 菊花展
夏には風鈴市が行われる場所で、一週間前から開催されている。見頃は11月のはずだが、と思いつつ立ち寄ることにした。 |
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川崎大師 菊花展
予想通りわずかに咲いているだけである。 |
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川崎大師 菊花展
菊花展の見頃と言えば大懸崖であるが、全く咲いていない。 |
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川崎大師 菊花展
わずかながらでも咲いている部分を撮っているが、例外である。 |
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川崎大師 菊花展 |
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川崎大師 菊花展 |
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川崎大師 不動門
菊花展の外れにある門で、正面に不動堂がある。参道右には八角五重塔(中興塔)がある。 |
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川崎大師 八角五重塔(中興塔)
弘法大師千百五十年御遠忌と当山吉例十年目毎の大開帳奉修を記念して現貫首により発願され、十方有縁檀信徒の信助によって、昭和五十九年に落慶されました。
この八角五重塔の地階には、釈迦如来をご本尊とする慰霊堂、一層には金剛界五智如来と真言八祖がおまつりされています。
二層は金剛界及び胎蔵界の石彫梵字曼荼羅とともに、中央に恵果阿闍梨(中国の高僧・弘法大師の師僧)と、向って右に弘法大師(空海上人)、左に真言宗中興の祖・興教大師(覚ばん上人)のご尊像をそれぞれおまつりしています。
塔上の相輪の下の露盤内には、翡翠の金剛界大日如来像が納められています。
恵果阿闍梨( 七四六年〜八〇五年)
弘法大師 ( 七七四年〜八三五年)
興教大師 (一〇九五年〜一一四三年) |
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川崎大師 八角五重塔(中興塔) |
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川崎大師 日清戦争招魂碑
案内板はないが、銅柱には
「橘樹郡出身征清陣亡軍人招魂碑」
と書かれている。書は陸軍大将川上操六である。日露戦争の招魂碑、戦勝記念碑は至る所で見るが、日清戦争の招魂碑は珍しい。
橘樹郡は川崎市の大部と、横浜市の一部である。 |
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川崎大師 不動堂
当山の不動堂は、御本尊に千葉・成田山新勝寺不動明王の御分躰をおまつりしています。
明治二十三年に建てられた以前の建物は典雅なお堂でありましたが、昭和二十年四月、戦災によって焼失しました。現在のお堂は、昭和三十九年四月に再建されたものです。武相二十八不動尊の第一番札所として信仰をあつめています。 |
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川崎大師 不動堂 |
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川崎大師 大本堂 |
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川崎大師 弘法大師道標
厄除け大師として知られている川崎大師・平間寺は、大ぜいの参詣者でたいへんな賑わいをみせることで有名です。
信仰と行楽をかねた川崎大師への参詣は、江戸時代初期からたいへん盛んになりました。そこで江戸からの参詣者のために、寛文三年(一六六三)に本道標が建てられました。道標は、高さが一七一センチメートルと大形で、しかも力強い書体で「従是弘法大師江之道」(これより弘法大師への道)と刻まれております。
現在は境内に建っていますが、当初は、川崎宿下手の土居(川崎宿の多摩川寄り入□)付近にありました。江戸からの参詣者は、六郷川(多摩川)を渡って船場町(現在は多摩川の河床)にいたり、本道標の指示にしたがって左折し、大師道へと歩んでいきました。
本道標は、菱川師宣の「東海道分間絵図」(元禄三年・一六九〇刊)や 川崎宿船場町絵図(明和二年・一七六五作図)、さらに、享和年間(一八〇一〜一八〇四)に道中奉行所が作成した「東海道分間延絵図」の中にも描かれており、歴史的にも川崎宿を代表する責重な石造の記念物です。 |
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川崎大師 道標(どうひょう)
寛文三年(一六六二年)川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近く、大師へ至る道の入口に建てられたもので、この碑には「こうぼう大し江のみち」と刻まれている。
この碑は第二次大戦後六郷橋付近の道路拡張工事にともなって、当山の境内に移管されたものである。
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川崎大師 道標(どうひょう) |
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川崎大師 大本堂 |
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川崎大師 大山門(遍照門) |