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日光街道を北上 南千住警察署入口交差点 |
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日光街道を北上 南千住交差点
南千住交差点で小塚原回向院、南千住駅前を通る吉野通り(コツ通り)が合流する。 |
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日光街道を北上 南千住交差点
この交差点が吉野通りの終点で、斜め右から合流する。 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社
素盞雄神社
小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
石を神として尊崇する信仰は全国各地に見られるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(七九五)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は、「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
宝暦年間頃まて行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事て、『東都歳時記』(天保九年)にその雄壮な様が描かれている。 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社
延暦14年(795年)、の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と神託を授け、開祖黒珍は一祠を建て、創建された。 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 雛祭り
参道にテントが設置され、上段に親王雛、中段に三人官女、下段に五人囃子が並べられている。特に説明はなく、ホームページにも記載がないが、氏子が不要になった雛人形を奉納、それを展示しているように思える。
これだけでもかなりの数だが、境内を巡るとあちこちにテントがあり、全体では相当な数になると思われ、その保存の手間を考えると神社の苦労が忍ばれる。 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 飛鳥の杜
母乳の出ない婦人がその皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願した「子育ての銀杏」をはじめ樹齢五・六百年という大イチョウ。 4月8日「御創建疫神祭」桃の御守に因む一重八重、紅や白の桃の木々。このように瑞光石を中心に樹木が生い繁り、四季折々の変化をみせるこの境内を「飛鳥の杜」と言います。
現在では「お天王さま」と親しまれている当社ですが、風雅を好む江戸の文人たちには「飛鳥さま」の名が好まれ、当時の名所案内はこの境内を「飛鳥の杜」と紹介しています。 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 飛鳥の杜 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 飛鳥の杜
天王社の大銀杏
素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。「江戸名所図会」にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
この大銀杏は、幹の周囲約三.三メートル、高さ約三十メートルである。
この木の皮を煎じて吹むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 雛祭り |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 雛祭り |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 |
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日光街道 南千住交差点 素盞雄(すさのお)神社 雛祭り
テントや社殿の色々な階段だけでなく、神楽殿にも飾られている。 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
隅田川に架けられた橋としては最も古く、最初の架橋は徳川家康入府4年後の文禄3年(1594年)である。現在の橋は昭和2年架橋の大橋と、昭和47年完成の二重橋構造で、大橋から上流は荒川、下流は隅田川となる。
写真の橋は下り専用の二車線道路で、上りは右の少し高い所を走る。 |
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日光街道 千住大橋南詰 八紘一宇の碑
今時千住大橋のような賑やかな場所に「八紘一宇」の碑が残っているのは珍しい。 首相にもなった林銑十郎の揮毫である。 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
千住大橋
文禄三年(一五九四)徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。
架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二○○メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
現在の鋼橋は、昭和二年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四○○年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
千住大橋
“千住大橋”は“千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄三年(一五九四)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
当初は、ただ大橋と呼ばれていたが、 下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから“千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約百二十メートル)、幅四間(約七メートル)であった。
奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、 三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところもここである。
現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和二年(一九二七)に架けられ、近年の交通量の増大のため、 昭和四十八年(一九七三)新橋がそえられた。 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
千住大橋の北詰の堤防に松尾芭蕉の奥の細道への旅立ち風景が描かれている。 |
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日光街道 千住大橋北詰 矢立初めの地碑
松尾芭蕉の矢立初めの句が残されている。
「行く春や 鳥啼き 魚の 目に泪」 |