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JR 総武線 錦糸町駅
JR 総武線 錦糸町駅〜北斎通り(大横川親水公園〜野見宿禰神社〜緑町公園)〜江戸東京博物館〜京葉道路〜両国公園 勝海舟生誕の地〜本所吉良祭(本所松坂町 吉良邸跡〜元禄市)〜回向院〜国技館通り〜両国駅
【撮影記録】
平成30年 12月 8日 曇り 後 晴れ
10:50〜12:35 5,200歩(概算 3.2km 地図上の距離 3.1km)
錦糸町駅ではどんよりとした曇天で、温度は天気予報では最高が13℃だったのに19.0℃だったが、薄ら寒かった。歩き始めると暖かくなり、無風に近いため薄っすらと汗をかいた。両国公園では晴れてきて、本所吉良祭も1日目のせいか人手も思ったよりは少なく、歩きやすかった。回向院を回ってまだ歩ける気もしたが、明後日にイベントを控えているため体力温存のため、両国駅に戻った。 |
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JR 総武線 錦糸町駅 北口 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は10:50で、温度19.0℃、湿度は27%、熱中症計は警戒である。
無風に近いためしのげるが、薄ら寒くコートのチャックを閉めてから歩き始めた。 |
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JR 総武線 錦糸町駅 北口 アルカキット錦糸町
バスターミナルに沿って西進するとショッピングセンターのアルカキット錦糸町があり、入り口にはクリスマスツリーが飾られている。 |
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JR 総武線 錦糸町駅 北口 アルカキット錦糸町 |
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北斎通りを西進 アルカキット錦糸町前の紅葉したケヤキ並木
北斎通りは元々南割下水通り(横川から東は錦糸堀)と言われていたが、葛飾北斎が生まれたことから改称された。西の端は東京江戸博物館がある清澄通りである。 |
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北斎通りを西進 アルカキット錦糸町前を走るすみだ百景バス(南部ルート)
すみだ百景バスは平成24年4月に運行を開始した墨田区のコミュニティバスで、3ルートあり、南部ルートは両国・錦糸町ルートでシンボルカラーは江戸紫である。写真のバスは1台導入された電気バスなので、カラーは黄色、マスコットは女の子の「すみりんちゃん」(通常は男の子の「すみまるくん」)である。 |
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北斎通りを西進 東武ホテル レバント東京 |
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北斎通りを西進 アルカタワー向いにある津軽稲荷神社
現在の両国パールホテル付近にあった津軽藩下屋敷にあった稲荷神社が移転、錦糸町1丁目の守護神となった。なお、北斎通りの野見宿禰神社は同藩の上屋敷裏門付近にあたる。 |
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北斎通りを西進 大横川親水公園
津軽稲荷神社のすぐ西側にある公園で、南北に長い公園である。北は東京スカイツリー前の東武橋で、浅草通り、春日通り、蔵前橋通り、北斎通り、京葉道路と過ぎて首都高7号小松川線まで続く。
地図で見ると大横川は南北に、竪川は東西に流れており、縦横の表記が逆のように見える。東京は南北を基軸としており、地図も北が上である。その視点から言うと南北が「縦=竪」、東西が「横」である。
しかし、東西に流れる川が竪川で、南北に流れる川が大横川だったり、横十間川である。これは、日本書紀の成務天皇紀にある 「東西を以って日の縦となし」に
由来する、との説がある。 |
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北斎通りを西進 大横川親水公園
公園の北側には東京スカイツリーが見える。 |
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北斎通りを西進 本所割下水
割下水とは、かつてここを流れていた下水の呼称です。1650年代末以降の本所開拓の中で開鑿(かいさく)された下水で、かつてはその両側に道がありました。あの有名な葛飾北斎も、割下水付近の住人だったようです。
この付近は、いわゆる本所七不思議の舞台の一つとして知られてきましたが、特に近年は葛飾北斎ゆかりの地として有名になっています。
割下水は昭和初期に暗渠(あんきよ)となり、平成2年から5年にかけての歩道整備を経て現在のような道路となりました。
平成6年8月以来、「北斎通り」の名前で親しまれています。 |
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北斎通りを西進 本所割下水 |
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北斎通りを西進 行灯風の街灯
大横川親水公園を過ぎると行灯風の街灯が並ぶ。かつてはそれぞれに北斎の代表的な版画が街歩き「北斎ギャラリー」として飾られていた。現在は江戸東京博物館までの全区間で版画は撤去されている。 |
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北斎通りを西進 三ツ目通りと交差する亀澤四丁目交差点
深川地区は明暦の大火の後に竪川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、二之橋、・・・五之橋と名付けられた。その後、各々の橋の通りが通り名となっている。
二ツ目通りは清澄通り、五ツ目通りは明治通りの方が有名である。 |
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北斎通りを西進 三ツ目通りと交差する亀澤四丁目交差点 |
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北斎通りを西進 「葛飾北斎」ゆかりの地 本所割下水 |
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北斎通りを西進 亀沢三丁目 周辺案内図 |
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北斎通りを西進 すみだ百景 すみまるくん 亀沢三丁目 バス停
すみだ百景バス(南部ルート)のバス停で、1時間に4本運行されている。 |
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北斎通りを西進 すみだ百景 すみまるくん 亀沢三丁目 バス停 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社
神社の表参道に相当する入り口だが、何度も来ているが、いつも門は閉じられており、中には入れない。 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社
北斎通り側の入り口に飾られている案内である。
かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治十八年(一八八五)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和二十七年(一九五三)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名が、もう一基には四十七柏戸剛以降の名前が刻まれています。 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社
いつもは無視している入り口であるが、これは裏参道に当たり、中に入れるのではないか、と思って立ち寄った。 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社 歴代横綱の石碑
47代柏戸剛以降、72代稀勢の里寛までが記されている。現存者は赤字であるが物故者は黄色だったり、掠れていたりして統一されていない。例えば柏戸は赤色が僅かではあるが残っているが、現役の白鵬も同じ程度に掠れている。 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社 歴代横綱の石碑
歴代横綱の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和二十七年(一九五二)十一月に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
野見宿禰神社は、明治十七年(一八八四)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。
玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれておりゝ今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。
創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。 |
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北斎通りを西進 野見宿禰神社 歴代横綱の石碑
初代明石志賀之助から46代朝汐(潮)太郎までの名前が刻まれている。すべて物故者であるが、何故か46代若乃花勝治だけが黄色になっている。 |