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清澄庭園(富士山〜自由広場(芭蕉句碑)〜正門)

【関連サイト】   東京の名園 清澄庭園と清澄公園

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清澄庭園 富士山 清澄庭園 富士山 

全山がツツジとサツキで覆われ、別名を「つつじ山」ともいいます。本庭園内では最も高く大きな築山で、毎年5月初旬には、山全体が花で燃えたつように色付きます。
清澄庭園 富士山前からの風景 清澄庭園 富士山前からの風景 

南東に位置する富士山から、対角線の北西にある正門方向を見たものである。中村学園や大正記念館、新緑の木々が美しい。
清澄庭園 富士山 清澄庭園 富士山 
清澄庭園 左折して自由広場へ 清澄庭園 左折して自由広場へ 

自由広場の入口は狭いが、広場は大きい。
清澄庭園 自由広場 花菖蒲田 清澄庭園 自由広場 花菖蒲田 

広場の左にある。
清澄庭園 自由広場 花菖蒲田 清澄庭園 自由広場 花菖蒲田 
清澄庭園 芭蕉の句碑 清澄庭園 芭蕉の句碑 

白いギリシャ風の区立深川図書館の方が先に目に入る。
清澄庭園 芭蕉の句碑 清澄庭園 芭蕉の句碑 

「古池の句」碑由来

 当庭園より北北西四百メートル程の所にふか川芭蕉庵跡(江東区常盤一丁目三番・都指定旧跡)があります。 
松尾芭蕉は、延宝八年(一六八〇)から元禄七年(一六九四)まで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
 かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享三年(一六八五)の春、詠まれています。
 この碑は、昭和九年に其角堂九代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てだものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願をしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあると言うことではありません。
 なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採荼庵跡がありますが、芭蕉は元禄二年(一六八九)に「奥の細道」の旅をここから出発しました。
清澄庭園 芭蕉の句碑 清澄庭園 芭蕉の句碑 

「古池や かはづ飛び込む 水の音」。
最も有名なこの句を刻んだ石碑が、園内に立てられています。もとは隅田川の岸辺にあったものを、護岸工事のときに移したものです。
清澄庭園 江東区立 深川図書館 清澄庭園 江東区立 深川図書館 

芭蕉の句碑の後にあり、白いギリシャ風の建物である。
清澄庭園 こどもの日開催 親子竹とんぼ教室 清澄庭園 こどもの日開催 親子竹とんぼ教室 
清澄庭園 こどもの日開催 親子竹とんぼ教室 清澄庭園 こどもの日開催 親子竹とんぼ教室 
清澄庭園 涼亭 清澄庭園 涼亭 

日本情緒を豊かに醸し出す数寄屋造りの涼亭は、明治42年(1909)年に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたものです。昭和60(1985)年、全面改築工事を行い現在に至っています。
清澄庭園 奇岩名石の数々 #30 紀州青石 清澄庭園 奇岩名石の数々 #30 紀州青石 
清澄庭園 清澄園記 清澄庭園 清澄園記 

「本園はもと岩崎男爵の別荘なりしを大正13年6月に東京市に公園として寄付せられたるものなり。」と書かれている。寄付の理由は関東大震災である。
清澄庭園 泉水、涼亭 清澄庭園 泉水、涼亭 
清澄庭園 傘亭跡 清澄庭園 傘亭跡 

傘亭は昭和初期の竣工より80年以上が経過し、この度の東日本大震災で被害を受けて傘部の亀裂、柱の傾斜が認められ、安全に利用が出来なくなったため、平成24年1月に撤去されました。
清澄庭園 傘亭跡からの風景 清澄庭園 傘亭跡からの風景 
清澄庭園 泉水 清澄庭園 泉水 
清澄庭園 石橋 清澄庭園 石橋 
清澄庭園 大正記念館 清澄庭園 大正記念館 
清澄庭園 正門 清澄庭園 正門 



 
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