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源森橋を渡って左折、隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)へ |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 案内図
案内図の書き方が悪いが、北は左である。現在地は右上角で、南東に位置する。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)を北上 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 堀辰雄 住居跡
作家、堀辰雄は明治三十七年(一九〇四)千代田区平河町に生まれましたが、同三十九年故あって母志気と共に生家を出て、向島小梅に移り住みました。
同四十一年、母が上条氏と再婚したため須崎町の岡家に入り、四十三年、ここの正面に住むようになりました。
ここから牛島小学校(本所高校の位置)へ通い、やがて府立三中、一高、東大へと進学しています。
夫人多恵氏の『道の花』に
「向島の家はなつかしい。今は建て直してすっかり外観を異にしてしまったが、あの竹の植わっていた小さな玄関−辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』
と呼んでいた……」と記しています。
辰雄は、『風立ちぬ』などのすぐれた短編小説をのこしていますが、『菜穂子』のような本格的長編もあり、独自に孤高の文学の世界を築きました |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 牛嶋神社
牛嶋神社は隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)の北の外れにあり、その先には言問橋がある。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 牛嶋神社
貞観二年(860年)、慈覚大師の御神託により創建。江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られ、また本殿前には全国でも数少ない三輪鳥居があります。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 牛嶋神社から見える東京スカイツリー |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 汐入りの池
現在の日本庭園は、隅田公園が整備される以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用しています。
ここには江戸時代、水戸藩の下屋敷があり、主に蔵屋敷として使われていました.明治維新後は一時上げ地となりましたが、その後下賜され、水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで代々ここに住みました。当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在り日の姿が伺えます,
関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれ、邸内の池(当路は汐入の池)等の遺構を活用し、日本庭園へと形を変えて現在に伝えられています。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 汐入りの池 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)
明治天皇行幸所の碑が建てられている。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)
明治遷都後初の宮中花見
江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤は、明治時代になってもその魅力を増していきました。
明治時代になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移しました。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していましたが、昭治維新の混乱期や東京遷都で中断していました。
1875年(明治8年)花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選びました。
その際に詠んだ歌がここに残されています。いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌です。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)から墨堤通りへ |
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墨堤通り 枕橋、墨田区役所
寛文二年(一六六二年)関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。その北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。
現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。 |
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墨堤通り 枕橋から見た東京スカイツリー |