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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 季節の飾り物を扱う立沢商店 
蔵前橋との交差点である蔵前一丁目から江戸通りに入ると季節の飾り物を扱う立沢商店があり、今回は桜の造花が飾られていた。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 リボンと紐の中根商店 
セブンイレブンの先にはリボンと紐の中根商店がある。 |
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江戸通り 須賀橋交番前交差点  |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 生活空間ディスプレイのプリズム味岡 
生活空間ディスプレイのプリズム味岡と続く。造花あり、室内ディスプレイありと様々である。問屋街と言われるが、商店街のほうが適切では、という気もするし、横山町の繊維問屋街のように素人お断りの表示も見当たらない。但し、別情報では素人にも売ってくれるが、小売店のように1個、2個では買うことは出来ず大量買前提とも言われている。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 四季の装飾の大西造花 
四季の装飾の大西造花である。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下  |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 人形の三桜 
江戸通りの反対側に人形の三桜が見える。 |
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江戸通り 須賀神社  |
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江戸通り 須賀神社 
よくある由来などの案内板はない。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 ディスプレー装飾の丸正 
ディスプレー装飾の丸正である。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 ディスプレー装飾の丸正 
造花が飾られている、とは分かっているが普通の花屋のように華やかである。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 ディスプレー装飾の丸正 
左上のガラスに「小売いたします」との張り紙がしてあり、この一帯が問屋であることが分かる。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 人形の久月総本店 
江戸通りの反対側に人形の久月総本店が見える。江戸通りの道幅は広く、近くに交差点も見当たらないため立ち寄ることはできなかった。 |
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江戸通り 浅草橋雑貨問屋街を南下 人形司 市川豊玉 
浅草橋駅界隈には有名な久月や秀月だけでなく、人形司 市川豊玉もある。 |
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江戸通り JR総武線、都営浅草線 浅草橋駅 
何故かキャリーバックや大きなスーツケースを持ってウロチョロする中国人グループが多い。通行の邪魔になることおびただしい。 |
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江戸通り 浅草橋駅 人形の秀月  |
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江戸通り 浅草橋駅 吉徳大光 
創業正徳元年(1711年)。約300年の歴史を有する老舗である。(江戸最古) |
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江戸通り 浅草橋北詰 浅草見附跡  |
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江戸通り 浅草橋北詰 浅草見附跡  |
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江戸通り 浅草橋北詰 旧町名由来案内 旧浅草橋 
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ぱれたがいつしか「浅草橋」になった。 |
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江戸通り 神田川に架かる浅草橋  |
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江戸通り 神田川に架かる浅草橋 
屋形船が係留されている。 |
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江戸通り 浅草橋南交差点  |
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江戸通り 浅草橋南交差点 郡代屋敷跡 
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。 関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。 その邸宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。 寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(一八〇六)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。 |
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江戸通り 浅草橋交差点 
五差路の大きな交差点だが分かりにくい。
東西を通る道路は、西から靖国通りが来てこの交差点で京葉道路と改称する。北から来る江戸通りは分岐して右側(西側)に向い、左側へ分岐すると清杉通りとなる。 |