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佃公園〜住吉神社〜月島駅

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隅田川沿いに桜並木の佃公園を南下 隅田川沿いに桜並木の佃公園を南下 
佃公園から見た亀島川水門(南高橋) 佃公園から見た亀島川水門(南高橋) 

鐵砲洲稲荷神社から中央太神市に向った時の南高橋は、亀島川水門の裏にある。右端の木立は隅田川テラスの始点で、そこに黄金の江戸湊の大碇がある。
佃公園 高層マンション群のリーバーシティ21 佃公園 高層マンション群のリーバーシティ21 
佃公園から見た佃大橋、明石町のセントルークスタワー 佃公園から見た佃大橋、明石町のセントルークスタワー 
佃公園 灯台広場 石川島灯台 佃公園 灯台広場 石川島灯台 

石川島の灯台の下は公衆トイレである。

石川島の灯台は慶応2年(1866年)、石川島人足寄場奉行清水純崎が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため 油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。 この完成を最も喜んだのは近在の漁師であった。
佃公園 灯台広場 石川島人足寄場跡 佃公園 灯台広場 石川島人足寄場跡 

 佃島は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。
 家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向ったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出して一行を助け、ここに徳川家と佃島漁民の間に固い絆が結ばれることになった。
 その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通して、その出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。
 1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋立てて営造し故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島と命名した。
 このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。
佃公園 灯台広場 石川島人足寄場跡 佃公園 灯台広場 石川島人足寄場跡 
佃公園 佃公園案内図 佃公園 佃公園案内図 

現在地は赤印の灯台広場である。
佃公園 佃堀に架かる住吉小橋を渡る 佃公園 佃堀に架かる住吉小橋を渡る 
佃公園 住吉神社の銅製の大鳥居(一の鳥居) 佃公園 住吉神社の銅製の大鳥居(一の鳥居) 

住吉小橋を渡ってすぐ左にある。
佃島 住吉神社 正面鳥居 陶製の扁額 佃島 住吉神社 正面鳥居 陶製の扁額 

正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。

扁額には「一品幟仁親王」と書かれている。
佃島 住吉神社 住吉神社の水盤舎・陶製扁額 佃島 住吉神社 住吉神社の水盤舎・陶製扁額 

 住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
 当社は、創建以米、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。
 水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明泊二年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十二年(一八四一)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
 正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています・明泊十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
 水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。
佃島 住吉神社 住吉神社の水盤舎・陶製扁額 佃島 住吉神社 住吉神社の水盤舎・陶製扁額 
佃島 住吉神社 社殿 佃島 住吉神社 社殿 

御祭神
底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)
息長足姫命(神功皇后) 東照御親命(徳川家康)

例祭
八月六日

住吉神社略縁起
 「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕れた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。
 神功皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
 遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社に改めました。
天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年間に幕府より鉄砲洲向かいの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保二年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月二十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。
 佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。
 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。
佃島 住吉神社 南門から出て佃小橋へ 佃島 住吉神社 南門から出て佃小橋へ 
佃島 佃堀に架かる佃小橋を渡り右折、佃堀公園へ 佃島 佃堀に架かる佃小橋を渡り右折、佃堀公園へ 
佃島 佃堀に架かる佃小橋 佃島 佃堀に架かる佃小橋 

此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますのて立入ったリ掘り起こしたりしないで下さい。
佃島 佃堀 佃島 佃堀 
佃島 佃堀 佃島 佃堀 
佃堀沿いに歩き左折、佃大橋通りを歩く 佃堀沿いに歩き左折、佃大橋通りを歩く 
佃大橋通り 佃大橋東詰交差点 月島機械 旧本社 佃大橋通り 佃大橋東詰交差点 月島機械 旧本社 

昨年末(平成25年)に晴海のトリトンスクエア近くに本社は移転した。月島機械は明治に創業の名門企業であるが、旧本社の位置は清澄通りから少し離れている。
佃大橋通り 佃大橋東詰交差点 月島もんじゃ街(西仲通り) 佃大橋通り 佃大橋東詰交差点 月島もんじゃ街(西仲通り) 

佃大橋の下をくぐり抜けると月島もんじゃ街(西仲通り)である。
 佃大橋通り 初見橋交差点で左折、清澄通りへ 佃大橋通り 初見橋交差点で左折、清澄通りへ 
都営大江戸線/東京メトロ 有楽町線 月島駅 都営大江戸線/東京メトロ 有楽町線 月島駅 

新月陸橋沿いに北西から南東に有楽町線が、清澄通り沿いに南西から北東に都営大江戸線が初見橋交差点で交差する。月島駅は交差点で左折してすぐにある。



 
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