|
都道神田白山線(452号) 上野公園沿いに東進
左に東京都美術館が見える。 |
|
都道神田白山線(452号) 旧因州池田屋敷表門(黒門)
この門は、もともと因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。
表門は昭和29年3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は明らかでないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。昭和26年9月、重要文化財に指定。 |
|
都道神田白山線(452号) 旧因州池田屋敷表門(黒門)
名前は黒門であるが、上野戦争で彰義隊と官軍との激戦が行われた黒門は日光街道沿いの円通寺にある。 |
|
都道神田白山線(452号) 東京国立博物館 正門 |
|
都道神田白山線(452号) 東京国立博物館 正門から見た大噴水(噴水池) |
|
都道神田白山線(452号) 国立科学博物館
道路沿いにシロナガスクジラのオブジェが飾られている。 |
|
都道神田白山線(452号) 両大師堂
正保元年(一六四四)に寛永寺開山天海僧正の像を安置するため建立された。後に延暦寺の慈恵大師の像も安置されたため、、両大師となった。 |
|
両大師堂 |
|
両大師堂 |
|
両大師堂 両大師由来
当堂には寛永寺開山慈眼大師天海大僧正と大僧正が尊崇された第十八代天台座主慈恵大師良源大僧正を祀る。
天海大僧正は本坊内に慈恵堂を設けておられたが、やがて大僧正の入寂後に建立された開山堂に慈恵大師を合祀したため「両大師」と呼ばれるようになった。
ここに慈眼大師三百五十回の御遠忌を迎え両大師堂を始めとする寺観を一新すると共に新たに輪王殿を建立し、以て報恩の一端に徹するものである。 |
|
両大師堂 幸田露伴旧宅の門
両大師堂と輪王殿との間は生垣で仕切られ、その間を結ぶ小門が由緒ある門であるのには驚いた。 |
|
両大師堂 幸田露伴旧宅の門 |
|
輪王殿 幸田露伴旧宅の門
この門は台東区谷中3丁目の野路家にあったもので、元幸田露伴の屋敷にあった表門を移築したと伝えられる。瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造で、明治期のしもた屋(仕舞屋)の風情をよくとどめている。
露伴(1867〜1949)は下谷生まれで、小説『五重塔』(1893)を著したのも、幼少から谷中とは縁が深かったためであろう。 |
|
輪王殿 |
|
輪王殿 寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財) |
|
輪王殿 寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財) |
|
輪王殿 寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)
寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)
江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、束京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の 山主である」輪王寺法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は三五○○坪(約一.一ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応四年(一八六八)五月の上野戦争のため、ことごとく消失し、表門のみ戦火を免れた。
これはその焼け残った表門である。明治十一年、帝国博物館(現、束京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関束大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。
門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門である。薬医門とは、本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいう。なお、門扉には上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさっがうかがえる。 |
|
輪王殿 寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財) 門扉に残る弾痕
左上の乳金物の右に小さな穴が開いており、小銃の弾痕と思われる。しかし、中央下の大きな穴は小銃などというものではなく、かなりの大きさである。 |
|
両大師橋交差点で右折、都道神田白山線(452号)へ |
|
都道神田白山線(452号) JR跨線橋 両大師橋 |
|
都道神田白山線(452号) JR跨線橋 両大師橋
両大師橋を渡り斜め左に下るが、地上5〜6階建てのビルから下るのと同じ高さである。 |
|
都道神田白山線(452号) 両大師橋交差点 輪王殿案内 |
|
都道神田白山線(452号) 日本学士院 |
|
都道神田白山線(452号) 輪王殿 寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)
都道神田白山線(452号)から表門は柵があって近寄れず、弾痕は分からないし、普段は閉鎖されている。 |