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表参道から右折、義公讃仰碑へ
各社の梅酒を飲み比べるイベントが行われており、そのテントで右折する。 |
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常磐神社 義公讃仰碑 |
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常磐神社 義公讃仰碑
世称す、聖人誤って干戈の世に生まれ剣を提げて英雄となる、楠公是なりと、又云ふ英雄の資を治平の時に生まれ、百年の師と為り天下の法となる、義公是なりと、而して義公は湊川に寒煙荒草を披いて楠公の為に碑を建て、千歳の下其忠勇義烈を彰す、天和の天子は鳳詔を下し、義公を以て武を備え文を兼ぬ、絶大の名士と賛したまふ、義公は徳川光圀の諡なり、人傑の感懐至妙と謂ふべし、義公少より挺披不群、頗る膽気有り、而て父祖好学の風を承け、節を折って士に下り、書を読み道を聞いて倦まず、年十八、史記伯夷伝を誦んで感悟する所有り、礼譲の義を取り、修史の志しを立つ、公本威公の第三子なり、仲兄夭し、伯兄頼重は多病にして、後出でて封を高松に受く、公深く慮り兄の子綱方を請うて世嗣と為す、綱方早世するや、又其弟綱条を挙げて襲封せしむ、公実子有り、綱重乃ち養うて我が嗣と為す、後の高松侯頼常なり、朱舜水之を評して、公が譲国の一事之を為す、泯然迹無く泰伯夷斉も及ばざる所と為し、感嘆已まず、大日本史編纂の大業の如き、公の開創より完成に至るまで連綿二百五十年、是実に公が烈志の垂統なり、公能く学派を問はずして学者を用ひ、往を彰し来を考へ、虚心之を議せしめて独見を採らず、而て善を勧め悪を懲らして彝倫を叙し、皇統を正閏し、人臣を是非し、大義名分を明かにして、以て天下後世をして帰趨する所を知らしむ、其の間名君賢臣相承け、水戸学大に興る、幕末に及んで又碩学英傑輩出し、四方の志士仁人相踵いで来り学び、維新の皇運を扶翼するに与って大功有り、終に公の遠冑慶喜出て至誠善く断じ、大政を奉還して以て大義を四海に宣明するを得たり、明治三十三年十一月十六日明治天皇公に贈位追陞の勅語を賜ふ、贈従一位徳川光圀夙に皇道の隠晦を慨ひ深く武門の驕盈を恐れ、名文を明にして志を筆削に託し、正邪を弁じて意を勧懲に致せり、洵に是れ勤王の倡首にして実に復古の指南たり、朕適々常陸に幸し、追念転々切なり、更に正一位を贈り以て朕が意を昭にすと、公以て瞑すべし、公晩に西山に隠棲し、優游自適民と偕に楽む、功名富貴一も其心を動かさず、而て天下の憂に先んじて憂へ天下の楽に後れて楽むの大節に至っては終始渝らざるなり、公自ら其の碑に銘して曰く、月は瑞龍の雲に隠ると雖も光暫く西山の峰に留ると、国人長く其の余光を拝す、維時昭和四十三年恰も明治維新一百年に当る、乃ち有志相謀って、此処に義公鑽仰の碑を建つ、正に之を鑽れば弥堅く、之を仰げば弥高ければなり
昭和四十五年十二月六日
(一橋)徳川宗敬 題字
安岡正篤 謹撰
山内 武 謹書 |
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常磐神社 義公讃仰碑
大きな碑で、周囲に様々な露店が並んで賑わっていることもあり、立ち止まる人はいない。
一代の碩学である安岡正篤が謹撰であり、格調高い文章ではあるが、戦後生まれには当時常識とされていた事柄、言い回しに不慣れなことも有り、碑の前に設けられた石碑を読み下すのも大変だった。徳川慶喜の評価についても個人的には納得できない点もある。 |
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常磐神社 義烈館
入館しようとしたが、知的障害者の小グループが入口に立ち塞がって動かず、待っても状況が変わらないため断念した。 |
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常磐神社 義烈館
第二代藩主の義公(徳川光圀)、九代藩主烈公(徳川斉昭)の功績を讃えて造られた義烈館であるが、碑文の内容の多くは大日本史についてであり、読みにくい所が多々ある。
名君と敬われた徳川光圀(1628−1700)
「水戸黄門」で知られる徳川光圀(義公)は、寛文元年(1661)、水戸藩第2代藩主となると、文治的善政
を施し、藩内外から名君と仰がれました。「大日本史」の編集にも尽力し、晩年は西山荘(常陸太田市)で過ごしました。
幕末を烈しく生きた徳川斉昭(1800−1860)
文政12年(1829)、水戸落第9代藩主となった徳川斉昭(烈公)は、藩政改革を推進し、海防参与として幕
政にも関与するなど、斬新な発想と行動力で活躍しました。偕楽園の創設者でもあります。 |
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常磐神社 義烈館前広場の風景 |
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常磐神社 義烈館前広場の風景
こういうイベントにはよく出演する日光猿軍団である。 |
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常磐神社 義烈館前広場の風景 |
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常磐神社 摂社 東湖神社 |
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常磐神社 摂社 東湖神社 |
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常磐神社 摂社 東湖神社
摂社 東湖神社
御祭神 藤田東湖命(ふじたとうこのみこと)
創 祀 昭和18年 水戸市の紀元2600年記念事業で創建
祭 礼 5月4日:例祭
毎月4日:月例祭
御神徳 合格祈願、学業成就、事業繁栄
斉昭公に仕え、公を助けて藩政改革や兵器軍艦建造に
活躍。海防策を進言する等、幕府からも注目されました。
天保の改革、藩校弘道館の創建をはじめ斉昭公の片腕
として活躍し、薩摩の西郷隆盛や越前の橋本景岳など
天下の志士から景仰されました。
『弘道館記』の草稿を起草し、『回天詩史』『常陸帯』
『弘道館述義』や『文天祥正氣ノ歌二和ス』(正氣の歌)
など、水戸字を代表する文献の作者です。 |
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常磐神社 摂社 東湖神社
藤田東湖は安政2年(1855)の安政地震により圧死し、白山通りの水道橋交差点に碑がある。また、小石川後楽園内には藤田東湖護母致命之記念碑があり、隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)の緑道に、藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑がある。 |
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常磐神社 摂社 東湖神社
「文天祥ノ正気ノ歌二和ス」として漢詩の読み下し文が掲示されている。
文 天祥(ぶん てんしょう、端平3年5月2日(1236年6月6日) - 至元19年12月8日(1283年1月9日))は、中国南宋末期の軍人、政治家である。初名は雲孫(うんそん)。字は宋瑞(そうずい)、または履善(りぜん)。号は文山(ぶんざん)。
滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。張世傑、陸秀夫と並ぶ南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。 |
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常磐神社 摂社 東湖神社 南にある偕楽園レストハウス
東湖神社の社殿左の出口の先にあるレストハウスで、右に進むと偕楽園の東門に出る。 |