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浅草通り 吾妻橋西詰 水上バス乗り場 |
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浅草通り 隅田川に架かる吾妻橋から見た東京スカイツリー
アサヒビールタワーの右に金色のオブジェが飾られたアサヒビール吾妻橋ホール、その後ろにアサヒビールアネックスが見える。
この地区一帯をリバーピア吾妻橋といい、秋田藩佐竹氏の屋敷だった浩養園跡である。 |
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浅草通り 隅田川に架かる吾妻橋から見た東京スカイツリー |
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浅草通り 吾妻橋東詰交差点で左折、リバーピア吾妻橋へ |
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隅田公園 |
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隅田公園 紅葉した桜並木 |
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隅田公園 墨田区役所、東京スカイツリー |
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隅田公園 墨田区役所 うるおい広場 勝海舟(安芳)像
墨田区役所前広場には、本所生まれの幕末の雄・勝海舟の銅像が立つ。区役所1階には人物像などを紹介した「勝海舟コーナー」もある。
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(一八二三年)一月三〇日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉の実家男谷邸に生まれ、明治三二年(一八九九年)一月一九日、赤坂の氷川邸で逝去されました。 |
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隅田公園 墨田区役所前から見える東京スカイツリー |
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リバーピア吾妻橋 墨田区役所前交差点で左折、墨堤通りへ
交差点の先に北十間川に架かる枕橋があり、建設中の東京スカイツリーの撮影ポイントとして有名である。 |
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墨堤通り 北十間川に架かる枕橋
寛文二年(一六六二年)関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。その北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。
現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。 |
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墨堤通り 枕橋から見た東京スカイツリー |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)
墨堤通りの枕橋を渡って東武伊勢崎線の高架を過ぎた右手にある。
現在の日本庭園は、隅田公園が整備される以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用しています。
ここには江戸時代、水戸藩の下屋敷があり、主に蔵屋敷として使われていました.明治維新後は一時上げ地となりましたが、その後下賜され、水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで代々ここに住みました。当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在り日の姿が伺えます,
関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれ、邸内の池(当路は汐入の池)等の遺構を活用し、日本庭園へと形を変えて現在に伝えられています。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 緑道 藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
江戸末期の尊王攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(号は東湖)の「和文天祥正気歌」の刻まれた漢詩碑てす。
弘化二年(一八四五)十一月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
「天地正大の気、悴然として神州に鍾まる。秀でては富士の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ…(下略)」と、五言七十四句の中に天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。
中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詩したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。
東湖は、文化三年(一八〇六)水戸に生まれ、彰考館編修として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。安政二年(一八五五)の大地震のときに、五十歳で不運な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなリ、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
この碑は、昭和十九年(一九四四)六月に東湖会が建立しました。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 緑道 藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
隅田公園の墨堤通り沿いの緑道で、入口傍にある。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 紅葉した桜並木、東京スカイツリー |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 汐入の池 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 紅葉した桜並木、東京スカイツリー |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 紅葉した桜並木
隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)は、満開の桜並木で有名だが、10月始めに訪れた時も葉はあまり無かった。この写真のように、ほとんど裸木に近い木もある。 |
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隅田公園 牛嶋神社
貞観二年(860年)、慈覚大師の御神託により創建。江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られ、また本殿前には全国でも数少ない三輪鳥居があります。 |
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隅田公園 牛嶋神社
明神鳥居の両脇に脇鳥居が付いており、三輪鳥居と呼ばれる。
牛嶋神社は、貞観二年(八六〇年)に須佐之男命(すさのおのみこと)が、郷土守護神としてまつられたのにはじまり、その後、天之穂日命(あめのほひのみこと)、次いで清和天皇の第七皇子の貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)を合わせておまつりしております。
治承四年(一一八〇年)、源頼朝の大軍の豪雨中の参拝とか、天文七年(一五三八年)に後奈良院より「牛の御前社」という勅号を賜ったことなど、古来当社にかかわる伝説・縁起は数多くありますが、江戸時代初期に、境内に撫牛(なでうし)の石像がまつられて信仰をあつめ、十二年に一度の丑の年には、焼物の「牛のお守り」が作られるようになりました。
この「牛のお守り」は、それぞれの時代の人達の身近にあってその人達をお守りし、十二年毎に形を変えて敬愛され続けてきました。 |
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牛嶋神社 東口鳥居から出て左折、三ツ目通りへ |