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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木
言問橋から隅田公園に入ると、旧水戸藩下屋敷の小梅邸で、左には牛嶋神社がある。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 牛嶋神社
牛嶋神社は隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)の北の外れにあり、その先には言問橋がある。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 牛嶋神社 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 牛嶋神社
貞観二年(860年)、慈覚大師の御神託により創建。江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られ、また本殿前には全国でも数少ない三輪鳥居があります。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 牛嶋神社から見える東京スカイツリー |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 汐入りの池
現在の日本庭園は、隅田公園が整備される以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用しています。
ここには江戸時代、水戸藩の下屋敷があり、主に蔵屋敷として使われていました.明治維新後は一時上げ地となりましたが、その後下賜され、水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで代々ここに住みました。当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在り日の姿が伺えます,
関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれ、邸内の池(当路は汐入の池)等の遺構を活用し、日本庭園へと形を変えて現在に伝えられています。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木
天気も良くなり、青空に満開の桜がきれいに見え、近くの東京スカイツリーとの組み合わせが一幅の絵になる。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 明治天皇行幸所の碑 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 明治遷都後初の宮中花見
江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤は、明治時代になってもその魅力を増していきました。
明治時代になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移しました。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していましたが、昭治維新の混乱期や東京遷都で中断していました。
1875年(明治8年)花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選びました。
その際に詠んだ歌がここに残されています。いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌です。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 出口から右折、三ツ目通りへ |
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三ツ目通り 東武伊勢崎線 鉄橋から見える東京スカイツリー |
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三ツ目通り 北十間川に架かる源森橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。
その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅桃と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。
現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑飯桁)に架け替えられたものである。 |
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三ツ目通り 源森橋から見える東京スカイツリー
東武伊勢崎線が北十間川沿いに走る。 |
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三ツ目通り 源森橋から見える東京スカイツリー |
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三ツ目通り 吾妻橋交番前交差点で左折、浅草通りへ |
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浅草通り 大横川親水公園から見た東京スカイツリー
少し前までは、ここは屈指の撮影ポイントで、多くの観光客が写真を撮っていた。しかし、なぜかほとんど観光客はおらず、拍子抜けした。
東京スカイツリーとしては634mの高さまで完成しており、今までのように日々高くなる、ということはないのが理由かもしれない。 |
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浅草通り 業平一丁目交差点で左折、言問通りへ |