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偕楽園 東門
東門は偕楽園の南東角にあり、東湖神社の社殿の裏、西側にある。
金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられ、梅の名所として全国的にその名が知られています。
約13ヘクタールの広さを持つこの公園は、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が天保13年(1842)に創設しました。園内には現在約3千本(当初は約1万本)の梅があるといわれ、古木が多いことでも有名。春の訪れを告げる梅のほか、春から初夏にかけてはツツジ、秋には萩の花が咲き、園内は四季折々の花の香りに包まれます。表門近くの杉林・竹林の静寂さや、建築美が素晴らしい好文亭など、多くの見どころがあります。
斉昭は偕楽園の創設に先がけ、天保4年(1833)にその母体となったといわれる梅林計画を立てています。翌年、七面山と呼ばれる台地の一角を切り開き、飢饉と軍用の非常食とするため、梅の木を植えさせたといわれています。やがて天保12年4月、偕楽園の造園や好文亭などの建築工事が始まり、同13年7月に完成、開園となりました。
斉昭は天保10年(1839)、偕楽園創設の詳しい趣旨を述べた「偕楽園記」の碑のなかで、文字通り民と偕(とも)に楽しむための施設造りの構想を明らかにしていますが、偕楽園開園の前年には藩校・弘道館の附属施設的性格をもたせた、とみられています。文武修行の場である弘道館に対し、偕楽園は修業の休養の場とされ、両者は時の水戸藩文教政策の一環をなすものといわれています。 |
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偕楽園 東門 |
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偕楽園 東門 開花状況
偕楽園は約3,000本の梅があると言われ、前日の3月1日現在で1,660本が開花し、開花率は62.74%である。
「開花した」とはどのような状況か不明であるが、2/3の梅が咲いていることになる。実際に偕楽園を散策すると、満開とは言えないもののかなり咲いている、との印象を受ける。 |
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偕楽園 東門から梅を見つつ西進
全体として白梅の数が多いが、逆に紅梅の方が目立って目につく。 |
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偕楽園 東門から梅を見つつ西進 |
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偕楽園 東門から梅を見つつ西進 |
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偕楽園 東門から梅を見つつ西進 |
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偕楽園 東門から梅を見つつ西進 |
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偕楽園 東門から梅を見つつ西進 |
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偕楽園 東門から梅を見つつ西進 |
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偕楽園 見晴広場 臥龍梅 |
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偕楽園 見晴広場 臥龍梅
臥龍梅の名称は、その姿が臥せた龍に似ていることからつけられました。
この梅の木は。昭和五十八年(一九八三年)二月、宮城県松島の瑞巌寺の臥龍梅の穂木(白梅及び紅梅)を譲り受け、偕楽團の梅に接ぎ木をして育てたものです。
親木の臥龍梅は、伊達政宗が豊臣秀吉の命で朝鮮に出兵した折に、かぶとを植木鉢にして持ち帰り、慶長十四年(一六〇九年)の瑞巌寺の上棟の祝いに植えさせたものの後継と伝えられています。
*この臥龍梅は、東日本大震災からの復興を記念して平成二十四年二月七日に植樹したものです。 |
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偕楽園 見晴広場
広大な芝生広場であるが、ベンチは広場の角にいくつかある程度で数は少ない。 |
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偕楽園 見晴広場 左近の桜 |
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偕楽園 見晴広場 左近の桜
この桜は、天保二年(一八三一年)斉昭夫人の登美宮
(とみのみや)が降嫁の折、仁孝天皇から京都御所の左近の桜の鉢柚えを賜ったことにさかのぼります。
東京小石川の後楽園徳川邸に植えられたこの桜は、天保十二年(一八四一年)弘道館の落成にあたり弘道館正庁玄関前に移植されました
その後、初代・二代目は枯れてしまい、現在の桜は昭和三十八年(一九六三年)弘道館改修工事の完了を紀念して茨城県が宮内庁より京都御所の左近の桜の系統(樹齢七年)を受領し、弘道館と偕楽園に植えたものです。
ヤマザクラの一種の白山桜(しろやまざくら)で、幹の周囲は三、八四m、高さは約一六mです。 |
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偕楽園 見晴広場から見た千波湖
偕楽園は千波湖とほぼ同じ高さの常磐線の偕楽園駅(臨時駅)からかなり高い台地上にある。それでも大きく見えるということは千波湖の大きさが分かる。 |
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偕楽園 見晴広場から見た千波湖 |
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偕楽園 見晴広場 |
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偕楽園 見晴広場 仙奕台
仙奕台(せんえきだい)
千波湖をはじめ周囲の景観が一望できる
この突き出た台地を仙奕台と称します。
「奕」は囲碁を意味し、四方を眺め湖上
から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋
などを楽しんだところです。
石でできた碁盤や将棋盤、琴石、卓石は
当時のものです。 |
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偕楽園 見晴広場 仙奕台 |