のちに家斉の側室お美代の方一派により日蓮宗改宗の動きがあり、天保4年に寺号を天王寺とした。天王寺の銅造釈迦如来坐像、名物枝垂れ桜を見た後、谷中霊園の幹線道路のさくら通りを南下、天王寺五重塔跡、川上音二郎銅像台座などを過ぎて谷中霊園入口で左折、都道神田白山線へ入り上野桜木交差点で左折、言問通りへ進む。見苦しいほどに葉で覆われており、案内もないので何の木かわからない天王寺名物の枝垂れ桜など、名所、旧跡、意外なもの、歴史的なものなどを、豊富なコメント付き写真で紹介。"> 万歩計 散策点描 谷中銀座から谷中霊園、上野寛永寺、入谷朝顔市散策H260708 谷中銀座〜日暮里駅〜谷中霊園(谷中天王寺〜谷中霊園〜上野桜木交差点)
 
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谷中天王寺〜谷中霊園〜上野桜木交差点

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谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 

日暮里駅西口の旧駅舎横に階段がある。
谷中霊園 桜並木を南下 谷中霊園 桜並木を南下 

4月に来ると霊園の中の小道は満開の桜並木である。
谷中霊園 桜並木の突き当りで左折 谷中霊園 桜並木の突き当りで左折 
谷中霊園 案内図 谷中霊園 案内図 

右が北の地図で、現在地は右の小ブロックと左の緑ブロックとの境目の赤印である。境目の左に天王寺があり、十字の灰色の線は霊園内の幹線道路で左右がさくら通り、上下がぎんなん通りである。十字の交差点に幸田露伴の名作「五重塔」のモデルとなった天王寺の五重塔の遺構があり、交番がある。
谷中霊園 旧町名由来 旧谷中天王寺町 谷中霊園 旧町名由来 旧谷中天王寺町 

 本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺は鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長耀の草創にかかるといわれ、もとは長耀山感応寺と号した。のち元禄十一年(一六九八)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保四年(一八三三)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。
 本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治二十四年(一八九一)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。
 昭和四十二年(一九六七)の住居表示の実施で全域台東区谷中七丁目になった。
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 

日暮里駅からの桜並木の突き当りを左折し、さらにその突き当りに天王寺がある。
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 

谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長燿に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺ご改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。

元々日蓮宗の不受不施派であったため弾圧を受け、廃寺になるところを輪王寺宮のとりなしにより元禄12年に天台宗となった。のちに家斉の側室お美代の方一派により日蓮宗改宗の動きがあり、天保4年に寺号を天王寺とした。
谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 

 本像については、「武江年表」元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
 昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。「江戸名所図会」(天保七年(一八三六)刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
 本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
 平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 
谷中霊園 護国山天王寺 名物 枝垂れ桜 谷中霊園 護国山天王寺 名物 枝垂れ桜 

見苦しいほどに葉で覆われており、案内もないので枝垂れ桜とは思えないが、4月に来た時には花だけで名物と言われるだけのことはある。
谷中霊園 護国山天王寺 熱中症計は厳重警戒 谷中霊園 護国山天王寺 熱中症計は厳重警戒 

現在時刻は10:35で、熱中症計の温度は33.7℃、湿度は49%である。

歩き始めて20分だが汗が滴り落ち、梅雨の季節だが意外に湿気は少ないものの温度が高い。
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 

鉢植えの睡蓮で大きな花が見事である。
谷中霊園 さくら通りを南下 谷中霊園 さくら通りを南下 

天王寺を出ると、道は広くなり、桜並木で有名なさくら通りと称される。
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 

最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で消失した。 罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅悸造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月九日放火により消失した。
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 

谷中霊園の南北を通るさくら通りと、東西を結ぶぎんなん通りとの交差点に交番があり、隣接して天王寺五重塔の遺構がある。
谷中霊園 さくら通りを南下 谷中霊園 さくら通りを南下 

さくら通り沿いには川上音二郎、毒婦お伝、徳川慶喜などの墓所や慰霊碑などが並ぶ。
谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 

新派俳優。壮士劇の卒先者。福岡県の人。福岡藩主黒田氏の御用商人川上専蔵の子。玄洋社に入り、自由党壮士の群に投じ、自由童子と称し各地を浪遊し政談演説をする。過激な民権論を試み、政府を攻撃し法に触れ獄に投ぜられこと数々あり。金泉丑太郎と一座を組織、「経国美談」演じるが失敗に終わる。横浜にて書生芝居に加わり「板垣退助遭難実記」を演じ好評を博す。外国演劇視察のため渡仏。帰国後、書生芝居を組織。浅草にて「意外、又意外、又々意外」の新作を演じオッペケペ節を歌い大いに喝采を得る。日清戦争劇でも満都の好評を博す。衆議院議員の選挙運動に失敗。一座で渡航米国にて興行大好評を得る。英・仏を巡回し名声を上げる。独・伊・露巡演好評。自ら興行師たらんとして大阪帝国座を経営する。明治劇団に新派劇の新生面を開く。妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。
谷中霊園入口で左折、 都道神田白山線へ 谷中霊園入口で左折、 都道神田白山線 

団子坂下交差点から三崎坂を上って来た都道神田白山線と合流する。
都道神田白山線 上野桜木交差点で左折、言問通りへ 都道神田白山線 上野桜木交差点で左折、言問通りへ 

都道神田白山線は、交差点を渡り一方通行の細道を進んで上野公園に向かう。上野寛永寺に寄るため言問通りへ進む。



 
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