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天王寺〜谷中霊園〜上野桜木交差点

【関連サイト】   満開の上野、谷中、浅草散策(H20−03−29)


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谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 

日暮里駅西口の旧駅舎横に階段がある。
谷中霊園 満開の桜並木 谷中霊園 満開の桜並木 

霊園の中の小道は満開の桜並木である。
谷中霊園 満開の桜並木 谷中霊園 満開の桜並木 
谷中霊園 案内図 谷中霊園 案内図 

右が北の地図で、現在地は右の少ブロックと左の大ブロックとの境目の赤印である。境目の左に天王寺がある。
谷中霊園 案内図 谷中霊園 案内図 
谷中霊園 旧町名由来 旧谷中天王寺町 谷中霊園 旧町名由来 旧谷中天王寺町 

 本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺は鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長耀の草創にかかるといわれ、もとは長耀山感応寺と号した。のち元禄十一年(一六九八)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保四年(一八三三)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。
 本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治二十四年(一八九一)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。
 昭和四十二年(一九六七)の住居表示の実施で全域台東区谷中七丁目になった。
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 

谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長燿に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺ご改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。

元々日蓮宗の不受不施派であったため弾圧を受け、廃寺になるところを輪王寺宮のとりなしにより元禄12年に天台宗となった。のちに家斉の側室お美代の方一派により日蓮宗改宗の動きがあり、天保4年に寺号を天王寺とした。
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 
谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 

 本像については、「武江年表」元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
 昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。「江戸名所図会」(天保七年(一八三六)刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
 本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
 平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 
谷中霊園 護国山天王寺 枝垂れ桜 谷中霊園 護国山天王寺 枝垂れ桜 
谷中霊園 護国山天王寺 枝垂れ桜 谷中霊園 護国山天王寺 枝垂れ桜 
谷中霊園 満開のさくら通り 谷中霊園 満開のさくら通り 

天王寺を出ると、道は広くなり、さくら通りと称される。
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 

最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で消失した。 罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅悸造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月九日放火により消失した。
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 満開のさくら通り 谷中霊園 満開のさくら通り 

お花見の皆様へ
 この度の東北・関東大震災により、当霊園内でも多数の墓石等が損壊しました。
 また、いまなお、多<の方が避難生活を余儀なくされています。
 今後も地震の発生が予想され、墓所近辺でのお花見は大変危険ですので、お花見の自粛をお願いします。
 皆様のご協力をよろしくお願いします。

元々霊園であり、広いとは言えさくら通りは結構車が通るので、花見の宴を見たことはない。
谷中霊園 満開のさくら通り 谷中霊園 満開のさくら通り 
谷中霊園 都道神田白山線と合流 谷中霊園 都道神田白山線と合流 

都道神田白山線は、右から曲がってきて合流する。右折すると三崎坂を下り、団子坂下交差点に至る。
都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 

信じられないことだが、都道神田白山線は、民家の間の狭い道を通り抜ける。軽自動車がせいぜいの幅員で、谷中からの一方通行であるが、歩行者にギリギリで結構車が通り抜ける。



 
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