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言問通り 上野桜木二丁目交差点手前の交差点で右折
上野桜木交差点からは2番めの交差点で、名称はない。左には浄名院墓苑がある。 |
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上野寛永寺 根本中堂 入口
交差点で右折し、上野寛永寺の築地塀沿いに東南に歩く。 |
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上野寛永寺 根本中堂 入口 |
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上野寛永寺 根本中堂前境内
境内には虫塚を始め、上野戦争碑記、縁起 東叡山寛永寺、尾形乾山墓碑・乾山深省蹟、慈海僧正墓(都旧跡)、了翁禅師塔碑、銅鐘(台東区有形文化財)、六地蔵などの多くの遺構が並ぶ。 |
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上野寛永寺 本堂(根本中堂)
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(一八六八)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(一八七六)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(一六三八)の建造といわれる。 間口・奥行ともに七間(十七.四メートル)。前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重とし、細部の様式は和様を主とする。 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。 |
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上野寛永寺 本堂(根本中堂) |
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上野寛永寺 根本中堂前境内 |
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上野寛永寺 根本中堂 正門
正門を出て左折、区道を東南に進む。 |
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突き当りの台東区立上野中学校角で左折 |
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東京文化財研究所前を北上
道の反対側は台東区立上野中学校である。 |
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突き当り 上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門前で左折
左折して第三霊園の入口から勅額門に向かう。葵の御紋がまぶしい門の奥に徳川綱吉霊廟勅額門がある。 |
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上野寛永寺 第三霊園 入口 |
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上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門
五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。 綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。 元禄十一年(1698)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現・湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 |
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上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門
以前はこの案内板しかなかったが、平成20年の大河ドラマの天璋院篤姫ブームにより、その説明板も脇に設けられた。 |
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上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門 |
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上野寛永寺 天璋院篤姫墓所(非公開)
天璋院篤姫は天保六年(一八三五)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただだけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ)) 嘉永六年(一八五三)、島津本家二十八代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。 その後、安政三年(一八五六)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同年に徳川十三代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より十四代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか二年後の安政五年(一八五八)に逝去され、十四代将軍には紀州の慶福(よしとみ(のちの家茂公))が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。) また同年、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。 しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。 公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。 明治になると、わずか六歳で徳川家を継いだ十六代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治十六年十一月に四十八歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。 なお、墓所は五代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。 |
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上野寛永寺の霊園沿いに歩く
徳川綱吉霊廟勅額門がある第三霊園から上野寛永寺の塀沿いに東南に歩く。東京スカイツリーがよく見える。 |
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上野寛永寺 第二霊園 徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財)
四代将軍家綱は、慶安四年(1651)四月父・家光の死に伴って、わずか十歳で将軍の座につき、延宝八年(1680)五月八日に三十九歳で没した。法名を厳有院という。 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は、その霊所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。 |
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上野寛永寺 第二霊園 徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財)
四代将軍家綱は、慶安四年(一六五一)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(一六八〇)五1月八日にに三十九才で没した。法名を厳有院という。
主にタクシーが頻繁にかなりの速度で走る一方交通の区道沿いにあり、歩道は反対の東京国立博物館側にしかないので注意が必要である。 |
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忍岡中学校角で左折、新坂を下る
木立が忍岡中学校で、直進すると山手線沿いに右に曲がり寛永寺輪王殿を経て両大師橋に出る。交差点手前で右折すると東京国立博物館沿いに進み、国立科学博物館に出る。 |
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新坂 JR 山手線 鶯谷駅 南口
毎年7月6日〜8日に行われる入谷朝顔市の最終日のせいか、6年前の7日に来た時に比べ見物客の数が少ない。 |