万歩計 トップ 散策点描 目次    湯島天神 例大祭 神幸祭H260524 目次  湯島天神 神幸祭前風景〜発御祭 目次    湯島天神 神幸祭 発御祭〜御発社前風景  ページ ラスト 


万歩計



(Since H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)


湯島天神 神幸祭前風景

【関連サイト】   有名神社 湯島天神
湯島天神散策H240827

 直前のページに戻ります

写真の一覧表へ 


東京メトロ 千代田線 湯島駅 東京メトロ 千代田線 湯島駅 

湯島天神 神幸祭前風景〜発御祭〜御発社〜旧岩崎邸庭園〜本富士警察署〜本富士消防署〜本郷二丁目交差点〜順天堂医大〜サッカーミュージアム〜サッカー通り〜湯島天神

【撮影記録】
平成26年 5月 24日 晴れ
8:35〜12:25 9,200歩(歩数概算 6.0km)

ここしばらく続いている腰痛、膝痛でどれほど歩けるか心配だったが、巡行の速度が遅いこともあり、小休止することも出来なかったが午前のコースは歩ききれた。しかし、昼食時に腰が痛みだし、坂道の多い午後のコースを歩くことは難しく断念した。
神田明神、日枝神社と比べ、規模は格段に小さく華やかさも欠けるが、町内会で盛り立てている、という雰囲気がある素晴らしい神幸祭である。
湯島駅前に掲示されている参拝路案内図 湯島駅前に掲示されている参拝路案内図 

いつものように右折して不忍通りを南下、男坂に向かう。
不忍通り 天神町交番手前の交差点で右折 不忍通り 天神町交番手前の交差点で右折 

湯島駅から歩いて最初の信号がある無名の交差点で右折する。少し先に天神町交番が見える。
湯島天神 男坂手前にある天三町会 御神酒所 湯島天神 男坂手前にある天三町会 御神酒所 

午後の巡行の際、ここで町会から氏子総代が祝儀を渡し、狩衣を着た大麻神職が榊でお祓いをして祝詞神職が祝詞をあげる。

「天三」は天神町三丁目の略である。
湯島天神 男坂 湯島天神 男坂 

天神石坂(天神男坂)

三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
江戸時代の書物″御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。
湯島天神 男坂下 湯島聖天 心城院 湯島天神 男坂下 湯島聖天 心城院 

 当山はもと宝珠院弁財天と称され、湯島天満宮の境内にありました。湯島天満宮は菅原道真公を祭神としていますが、道真公はとくに聖天(大歓喜天)の信仰が篤く、ために「天満大自在天」ともいわれました。
 ときに元禄七年、湯島天神の別当職にあった天台宗喜見院三世の宥海上人が、道真公と因縁浅からざる大聖歓喜天を奉安し開かれたのが当山のはじめで、この本尊は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。
 以来当山は湯島の聖天さまとして熱心な信者の参詣があり、紀伊国屋文左衛門も当山に帰依された一人でありました。
 享保のころ幕府の財政事情で、幕府が扶助してきた神社仏閣への支出を削減しようと富くじを発行しました。江戸では谷中感応寺、目黒滝泉寺とならび、湯島喜見院が公認で富くじが行われ、江戸の「三富」といわれ、後に江戸各所で行われるようになりました。
 当時の喜見院は相当の境域があった様ですが、明治維新の神仏分離、廃仏の嵐で応時の様相は一変し、寺名も心城院と改められ、今日に至っています。
 当山は開基以来幾度となく発生した江戸の大火・大正大震災や空襲の戦災にも遭うことなくきましたが、堂宇は近年に改修されました。
 さて当山は江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから柳井堂と称されこれについて徳川時代の文献には次のようにあります。
  柳の井(江戸砂子 御府内備考)
この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり。
 この名水により大震災の時、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の唯一の水として生命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けました。
 また境内の弁財天放生池は、元禄の昔から病気平癒などの祈願で縁起の良い亀を放し、いまも「亀の子寺」として親しまれ、三百年の昔から信仰の篤い参詣者が絶えません。
湯島天神 男坂下 湯島聖天 心城院 湯島天神 男坂下 湯島聖天 心城院 
湯島天神 男坂 湯島天神 男坂 
湯島天神 男坂から露店が並ぶ道を直進 湯島天神 男坂から露店が並ぶ道を直進 

男坂を上った鳥居の左横で、露店の裏には講談高座発祥の地碑や、新派碑がある。
湯島天神 本殿 湯島天神 本殿 

 本殿は平成7年(1995)総檜木造りとして造営された.平成5年(1993)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7か月を要した。
 祭神は菅原道真である。伝承によれば文明4年(1355)湯島の郷民が霊夢によって老松の下に勧請したといわれている。太田道灌が本殿を再興し、江戸時代になって、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめた。かって、湯島天満宮は”湯島天神”として知られ鳥居前には町もでき人々の往来で賑わった。 
湯島天神 授与所横の建屋に展示された氏子町会 祭礼手拭 湯島天神 授与所横の建屋に展示された氏子町会 祭礼手拭 
湯島天神 授与所横の建屋に展示された氏子町会 祭礼手拭 湯島天神 授与所横の建屋に展示された氏子町会 祭礼手拭 
湯島天神 都々逸之碑 湯島天神 都々逸之碑 

授与所横の建屋の外れにある。5年半ほど前(平成20年12月)に建立されたにもかかわらず、句読点もなく、碑面が摩耗して読みにくい。

都々逸は日本語の優雅さ言葉の綾言い回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六文字で綴る大衆の詩である 古くより黒岩涙香平山蘆江長谷川伸らの先覚者により普及しわれわれとその流れの中で研鑽を重ねて来た 短歌俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の在すこの地に碑を建立する
湯島天神 西回廊 盆栽展 湯島天神 西回廊 盆栽展 

秋には大規模な菊花展が行われている。
湯島天神 西回廊 盆栽展 湯島天神 西回廊 盆栽展 
湯島天神 鈴なりの合格祈願の絵馬がある本殿 湯島天神 鈴なりの合格祈願の絵馬がある本殿 

さすがにシーズンオフなので学生は少ないが、ものすごい数の絵馬である。
湯島天神 参集殿 湯島天神 参集殿 

参集殿の右には社務所があり、絵馬や御札などの授与所もある。
湯島天神 神幸祭の準備を行っている参集殿前 湯島天神 神幸祭の準備を行っている参集殿前 

中央に獅子頭の山車があり、横に大剣がある。
湯島天神 神幸祭の準備を行っている参集殿前 湯島天神 神幸祭の準備を行っている参集殿前 

手前が大榊、その後ろが緑色の神幸祭旗、大太鼓である。後方に西門である唐門が見える。
湯島天神 透かし塀沿いに歩く 湯島天神 透かし塀沿いに歩く 
湯島天神 表鳥居(銅鳥居) 湯島天神 表鳥居(銅鳥居) 

銅製表鳥居(都指定文化財)

寛文7年(1667)9月創建され、同11年(1671)修理した銘かある。
下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。
湯島天神 準備作業中の露店が並ぶ参道 湯島天神 準備作業中の露店が並ぶ参道 
湯島天神 発御祭準備中の本殿 湯島天神 発御祭準備中の本殿 

同じように見えるが、左は本社神輿で幕で巡行用の台車が隠されている。右は車が付いた鳳輦で引綱がある。

他にも鳳凰が胸を張っているか否かとか、屋根の湯島天神の紋が金具か絵かといった違いがある。
湯島天神 発御祭準備中の本殿 湯島天神 発御祭準備中の本殿 
湯島天神 本殿前に掲示された例大祭次第 湯島天神 本殿前に掲示された例大祭次第 

上には神幸祭、下には本社神輿渡御の巡行経路が描かれ、一番下には境内で行われている催し案内が書かれている。
湯島天神 神楽殿 演奏中の江戸里神楽 湯島天神 神楽殿 演奏中の江戸里神楽 



 
万歩計 トップ 散策点描 目次    湯島天神 例大祭 神幸祭H260524 目次  湯島天神 神幸祭前風景〜発御祭 目次    湯島天神 神幸祭 発御祭〜御発社前風景  ページ トップ