|
佃大橋通り 佃大橋東詰交差点 月島機械 旧本社
昨年末(平成25年)に晴海のトリトンスクエア近くに本社は移転した。月島機械は明治に創業の名門企業であるが、旧本社の位置は清澄通りから少し離れている。 |
|
佃仲通りを進み、最初の交差点で左折
西仲通りは佃大橋通りを渡ると佃仲通りとなる。 |
|
佃仲通りを進み、最初の交差点で左折
左のマンション1階にはコンビニのセブン-イレブンがある。 |
|
突き当りを左折、佃大橋沿いに歩く |
|
佃大橋 佃堀広場 佃公園
右手奥には佃堀があり、赤い佃小橋が見える。 |
|
佃大橋 突き当たりで右折、佃渡し跡広場へ
左側には隅田川の堤防が続く。 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 老舗の佃煮店が並ぶ
子供の頃の朝食には佃煮が当たり前だった。懐かしさもあり立ち寄ったが、量も少なく、高価なので買うのを諦めた。観光客が訪れて買い物をしている光景をよく見る。 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 神輿、龍虎の頭 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 神輿、竜虎の頭
神輿の左に龍虎の頭があるが、暗いので見難い。 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 神輿、竜虎の頭
この竜虎の頭は創作年代不詳にして最も古きものなり。
既に天保初年発行の「東都歳時記」夏の條に
六月廿八、九日佃島住吉明神祭礼 竜虎の頭を渡す云々
とあるは之にして江戸時代佃島ハ幾多の火災に罹り全島焦土と化したる事もあれど何時もこの竜虎の頭ハ不思議にも其の災いをまぬかれたり。
大正十年頃迄ハ大祭の時に此の頭を渡せしが大獅子頭新造以来之を渡さず尚大祭の時ハ此の場所に庭を造り飾る事古例なり。
佃住吉講 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 佃島渡船碑
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住わせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。
明治九年七月には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出ている。大正十五年東京市の運営に移り、昭和二年三月、無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。
昭和三十年七月には一日七〇往復となったが、同三十九年八月、佃大橋の完成によって廃止された。
渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文 渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文
化財に登録されている。化財に登録されている。 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 佃島渡船碑 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 佃公園案内図 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 劇作家北條秀司句碑
佃煮店の丸久の前にあり、店の右側を進むと突き当りで、右折すると住吉神社で、左に銅製の大鳥居(一の鳥居)がある。 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 劇作家北條秀司句碑
劇作家北條秀司は佃島が好きであった。新派俳優花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島をあるき、大川の渡船をたのしんだ。
その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和三十二年十二月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北條の代表作をまた一つ世に残すことになった。 |
|
隅田川の堤防沿い 佃公園 佃渡し跡広場 突き当りで右折
左に住吉神社の銅製の大鳥居(一の鳥居)がある。 |
|
佃島 住吉神社
住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
当社は、創建以米、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。
境内には「伝 東洲斎写楽終焉地」の碑がある。 |
|
佃島 住吉神社 正面鳥居 陶製の扁額
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています・明泊十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。 |
|
佃島 住吉神社 住吉神社の水盤舎・陶製扁額
住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
当社は、創建以米、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。
水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明泊二年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十二年(一八四一)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています・明泊十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。 |
|
佃島 住吉神社 住吉神社の水盤舎・陶製扁額 |
|
佃島 住吉神社 鰹塚
水盤舎の裏にある。
鰹塚
鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(七〇一年)、「養老律令」(七一〇年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存食、調味料として利用してきました。
東京鰹節類卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和二十八年五月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員九十六名の積み立てによる浄財でまかなわれました。
塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。
表面の揮毫は、日展審査委員で組合員・鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。 |
|
佃島 住吉神社 鰹塚 |
|
佃島 住吉神社 社殿
御祭神
底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)
息長足姫命(神功皇后) 東照御親命(徳川家康)
例祭
八月六日
|
|
佃島 住吉神社 社殿
住吉神社略縁起
「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕れた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。
神功皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社に改めました。
天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年間に幕府より鉄砲洲向かいの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保二年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月二十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。
佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。
その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。 |