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東京カテドラル 聖マリア大聖堂前交差点 目白通りを渡り右折
交差点を渡った所に椿山荘正門があり、右折して目白駅方向に戻る。 |
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目白通り 講談社 野間記念館
椿山荘に隣接し、講談社初代社長の野間清治のコレクションが展示されている。 |
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目白通り 講談社 野間記念館 |
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目白通り 永青文庫案内に従い左折
消火栓表示柱野下と、交差点を渡った所の電柱に永青文庫入口の表示がある。少し先の信号は目白台三丁目交差点である。 |
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和敬塾
早稲田大学出身の前川製作所の創設者前川喜作氏が、男子学生寮として昭和32年に開設した。塾には早稲田だけではなく、慶応などの学生もいる。
目白通りの目白台三丁目交差点の先に和敬塾の正門がある。 |
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休館中の永青文庫
肥後熊本細川家の下屋敷跡で、永青文庫は南北朝から現代に至る細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財などがあり、昭和47年に一般公開された。 |
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休館中の永青文庫
館内工事の為に平成24年3月30日(金)まで休館させていただきます。以後、開館予定です。
また、新江戸川公園との接続門も同様に閉扉させていただきます。
何卒ご理解のほど申しあげます。 |
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休館中の永青文庫
この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後小しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を舎む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年に設立された。
昭和47年に登録博物館となり一般に展示公開されている。 |
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急坂の胸突坂を下る
早稲田大と日本女子大、椿山荘を結ぶ坂で、途中に関口芭蕉庵がある急坂である。 |
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紅葉、黄葉した木々が美しい関口芭蕉庵
江戸初期、神田上水の改修工事に携わっていた松尾芭蕉が住んだと伝わる地。池の周りに草木が生い茂る敷地内には、戦後復元された「芭蕉庵」、芭蕉の句碑、芭蕉の真筆を埋めた「さみだれ塚」などが点在する。 |
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紅葉、黄葉した木々が美しい関口芭蕉庵 |
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紅葉、黄葉した木々が美しい関口芭蕉庵 |
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関口芭蕉庵 芭蕉句碑
古池や
蛙飛びこむ
水のをと
芭蕉翁二百八十年祭に
これを建つ
文字は真筆 |
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関口芭蕉庵 芭蕉句碑 |
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紅葉、黄葉した木々が美しい関口芭蕉庵 |
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紅葉、黄葉した木々が美しい関口芭蕉庵 |
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紅葉、黄葉した木々が美しい関口芭蕉庵 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 出入口 |
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胸突坂を下り、神田川に架かる駒塚橋で左折 |
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神田川に架かる駒塚橋 北詰の胸突坂
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。 |
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神田川 北側遊歩道沿いの江戸川公園を東進
これが春には桜のアーチで覆われた神田川か、と思わざるをえないほど侘しさが漂う。 |
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江戸川公園 関口芭蕉庵
この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝(5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。
享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
芭蕉は、早稲田田んぽを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
芭焦庵の建物は、昭和13年(1938)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で焼失した。
敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。 |
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江戸川公園 関口芭蕉庵 |
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神田川 北側遊歩道沿いの江戸川公園を東進 |