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競馬場前交差点で第一京浜を横断、西側へ |
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第一京浜 川崎 堀の内ソープランド街
競馬場前交差点から第一京浜沿いの一画が有名な堀の内ソープランド街である。看板がなければ小洒落た商店街に見える。 |
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第一京浜 旧川崎宿 真福寺 |
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第一京浜 旧川崎宿 真福寺 庚申塔(附石造鉢形香炉)
中国には道教という思想があり、庚申信仰もその一つとして、平安時代にわか国に伝わり、江戸時代から庶民の間にも広まりました。
庚申信仰とは、六十日ごとに巡ってくる庚申の夜に眠ってしまうと、三尸という虫が体内から抜けだして天に昇り、天帝にその人の罪過を報告するので、庚申の夜は眠らすに、庚申待といって、健康長寿を祈願するものです。そこで庚申塔が、礼拝の本尊として建て
られるようになりました。 本庚申塔は、江戸時代の寛文五年(一六六五)に建てられたもので、正面には阿弥陀如来立像が、台座部には腰を落とした姿勢の猿が三匹正面を向き、この世での罪過は「言わざる・聞かざる・見ざる」というポーズをとっています。
また、台座部正面には「武州橘郡河崎新宿」の銘と十二名の造立者の名前が記されています。これによって本庚申塔は、東海道川崎宿を構成する村の一つである新宿に住んでいた人々によって発願造立されたことがわかります。
なお、本庚申塔の前には、「貞亨五年」(一六八八)の銘を刻んだ石造鉢形香炉が据えられています。 |
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第一京浜 旧川崎宿 真福寺 庚申塔(附石造鉢形香炉)
庚申塔というと、「言わざる・聞かざる・見ざる」の三猿が全面に出るのが普通だが、どこにも見えない。 |
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第一京浜 旧川崎宿 真福寺 本堂 |
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第一京浜 旧川崎宿 真福寺 庚申塔(附石造鉢形香炉)
石造鉢形香炉の前に、小さく摩滅した三猿らしきものがあった。 |
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第一京浜 旧川崎宿 稲毛神社 |
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旧川崎宿 稲毛神社 本殿
御由緒・御沿革
当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当地の古社であることが分かります。
社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。
鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜わり、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けてご社殿の造営に当たりました。
足利時代には、当時の神主が新田家と開係が深かったため社領を二十石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年(一四〇四)の大般若経六百巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄二年(一四五八)銘の艮鰐口は河崎山王社すなわち当社に奉懸されたものです
秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜わり、江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬を集めていました。
例大祭「河崎山王まつり」は六月十五日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて海道名物の一つとなっていました。 |
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旧川崎宿 稲毛神社 大鳥居
江戸時代末期の森家文書「当宿山王宮由来之事」によれば
(1)享保三年(一七一八)石之大鳥居建立右兵庫(田中)其筋え御願奉申上候処格別之御勘弁を以かぶき芝居興行舞台等殊之外大造り二いたし桟敷ナドニ重二掛ケ(略)其賑敷事人々目を驚かし(略)存之外寄金宜敷 諸入用存分二相拂残金を以石之鳥居相建凡金六十余両相掛り其外余金有之候間金百両余末々修理之ためかし金二いたし置候処惜哉 元文二至り故障あって失之(略)
右大鳥居之儀者 安政二卯年(一八五五)十月二日之夜四ツ半時古今稀成大地震二而倒れ大損し今者無之候
(2)嘉永二年(一八四九)宿役人並下役一同打ち揃い石之大鳥居を建立
諸雑用共凡百両余相掛リ候 尤も外二者一銭も勧化いたさず頼母子講立候
(2)の鳥居がこの鳥居です。
倒壊してしまった(1)の鳥居の台座と思われるものが足下にあります、田中兵庫の名が読み取れます。
なお、「川崎宿問屋日記」の弘化三年(一八四七)五月十五日に
当宿六郷川御普請所足金無尽取立二会目連中ヨリ貰請候高金百八拾両也 此金ニ而山王鳥居建立
とあります。この鳥居のことと思われます。 |
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旧川崎宿 稲毛神社 小土呂橋遺構
小土呂橋は今の小川町で、この橋は東海道が新川堀(今の新川通)を横切るところに架けられていました。
新川堀は慶安三年(一六五〇)に幕府関東郡代伊奈半十郎忠治が普請奉行となって開削されましたが、そこに架かる小土呂橋の最も古い記録は、正徳元年(一七一一)に代官伊奈半左衛門によって板橋として造られたというものです。その後、享保十一年(一七二六)に田中丘隅が石橋に改橋し、それが寛保二年の洪水で大破し、翌寛保三年(一七四三)に幕府御普請役水谷郷右衛門によって再興されたのがこの橋です。
以来、この橋は昭和七年に新川とともに埋められるまでおよそ二百年間多くの人々に利川されてきました。
橋脚には左のような銘文があります。
銘文中の石や左兵衛は、当時の名工・六郷八幡塚村の永井佐兵衛、仕手吉六は、鶴見橋そばの飯島吉六と思われます。何代かあとの吉六の名は鳥居の台石にも見られます。元請けが左兵衛、実際の仕事を吉六が行ったもののようです。
この遺構は、昭和六十一年、旧川崎宿鎮守稲毛神社の境内整備事業にともない、川崎市より譲り受け、ここに設置したものです。
小土呂橋は市内の数少ない近世石造橋のなかでその年代が最も古く、規模も大きく(三間☓三間)、幹線街道に幕府御普請所が架橋したものであるため、諸種の資料によって架橋の事情や構造が判明することなどから、高い資料性をもっています。
また、かってこの橋の上を歴代の将軍や大名が通り、オランダ・朝鮮・琉球の使節が渡り、ハリスも勝海舟も、象や虎さえも通ったかと思うと感興はつきません。 |
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旧川崎宿 稲毛神社 小土呂橋遺構 |
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旧川崎宿 稲毛神社 御神木大銀杏 十二支めぐり
このご神木大銀杏は、樹齢約一千年といわれ、当神社の長い歴史と尊い由緒を物語っています。
江戸時代には東海道を旅する者に「山王さまの大銀杏」として知られ、安藤広重の「武相名所旅絵日記」などに当時の神々しい姿が描かれています。
また、別の書物には「この大銀杏の周囲を回りながら願い事をするとことごとく叶う。特に縁結び子授け、子育て、学問・習い事の向上に霊験があり、参拝者が絶えない」と書かれています。
さらに、色紙に願い事を書いて枝に結び、葉のある頃には一葉をとって御守りとするとよい、と伝えられています。
戦前は神奈川県指定の天然記念物となっていましたが、惜しくも昭和二十年、戦火を浴びて大きく損傷してしまいました。しかし、年とともによみがえり、その生命力の強さは御神霊のなせるわざと人々はいよいよ篤い信仰を寄せています。と同時に近年、平和のシンボルとしても仰がれるようになりました。
昭和六十一年、稲毛神社境内整備事業の一環として、この御神木の周囲に十二支のブロンズ(制作川村易)を置き、十二支めぐりとして整備いたしました。
また、「十二支講」が結成され毎年例祭を行い、動物愛護・自然保護を主題とした集いが開がれています。
ご自分の生まれ年の神像を通してご祈願ください。 |
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旧川崎宿 稲毛神社 十二支めぐりの碑
この御神木大いちょうは、その樹齢一〇〇〇年を越えるといわれ、当神社の永い歴史と尊い由緒を物語っています。江戸時代には東海道を往来する旅人から川崎宿のシンボルとして親しまれ、安藤広重の「武相名所旅絵日記」などにも当時の神々しい姿が描かれています。
また別の書物には「この大いちょうは、ご霊験きわめてあらたかで、周囲をまわりながら願い事をすると、ことごとく叶うといわれ、近郷近在からの参拝者が絶えない」と書かれています。
戦前は天然記念物であったこの大いちょうは、昭和二十年四月、戦火を浴び五日間もくすぶり続けたため幹が空洞化してしまいましたので、倒壊の危険を避けるため、やむなくその上部を切り落としました。一時は枯れてしまうのではないかと心配されましたが、その後、残った幹の樹皮から若枝がはえ、葉が繁ってきました。人々は心から喜ぶとともに、その生命力の強さにあらためて畏敬の念を深く致しました。
このたび、この御神木の周囲を整備するに当り、日本古来の十二支信仰にちなんだ神柱を配しましたので、ご自分の生まれ年の神柱から順にご参拝下さい。 |
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旧川崎宿 稲毛神社 正岡子規 句碑
六郷の
橋まで来たり
春の風
この碑の横に佐藤惣之助の碑がある。 |
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旧川崎宿 稲毛神社
史跡東海道川崎宿 稲毛神社
当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
中世における当社の推移は定かでないが、応永11年(一四〇四)に大般若経書写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。
8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。 |
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旧川崎宿 稲毛神社 |
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第一京浜 旧川崎宿 稲毛神社 |
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第一京浜 宮前町交差点で右折、市役所通りへ
稲毛神社の鳥居前の歩道橋は川崎ハローブリッジである。 |
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市役所通り 稲毛公園 旧六郷橋の親柱
稲毛神社前の稲毛公園外れに飾られている。
六郷橋北詰の宮本台緑地にも旧六郷橋の橋門と親柱がある。 |
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市役所通りを西進 |
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市役所通り 川崎市役所
この川崎市役所の本庁舎の向かいに第3庁舎があり、その3階に職員食堂がある。この食堂は部外者でも利用でき、このイベントの参加者は20名を越えるため、休憩も兼ねて昼食をとった。 |