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富士見通り(富士見公園〜川崎 稲毛神社〜川崎市役所)

【関連サイト】   再開発後の川崎駅、川崎大師の歳末風景(H18−12−29)(富士見公園〜京急川崎大師駅〜川崎大師) 

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富士見通り(国道132号)を北上 富士見通り(国道132号)を北上 
富士見通り(国道132号) 労働会館前交差点で市道富士見鶴見駅線を渡る 富士見通り(国道132号) 労働会館前交差点で市道富士見鶴見駅線を渡る 
富士見通り(国道132号) 労働会館前交差点で市道富士見鶴見駅線を渡る 富士見通り(国道132号) 労働会館前交差点で市道富士見鶴見駅線を渡る 
富士見通り(国道132号) 市立労働会館 富士見通り(国道132号) 市立労働会館 

左に労働会館があり、右には富士見公園が続く。
富士見通り(国道132号) 富士見公園 富士見通り(国道132号) 富士見公園 

未だ10月中旬なのにいちょう並木は黄葉が始まっている。
富士見通り(国道132号) 富士見公園、川崎競輪場 富士見通り(国道132号) 富士見公園、川崎競輪場 
富士見通り(国道132号) 川崎市体育館 富士見通り(国道132号) 川崎市体育館 

富士見公園の北の外れにあり、左奥の木立ちの前に佐藤惣之助の碑がある。
富士見通り(国道132号) 川崎市体育館前 佐藤惣之助の碑 富士見通り(国道132号) 川崎市体育館前 佐藤惣之助の碑 
富士見通り(国道132号) 川崎市体育館前 佐藤惣之助の碑 富士見通り(国道132号) 川崎市体育館前 佐藤惣之助の碑 

 わが国の近・現代文学に多大な功績をのこした佐藤惣之助は、明治二十三年(一八九〇)、橘樹郡川崎町砂子(現在の川崎区本町)の旧川崎宿・上本陣(佐藤本陣)の次男として生まれました。
 詩人・惣之肋は、生涯で数多くのすぐれた作品をのこしていますが、その活動は俳句・小説・作詞などの分野にもおよんでいます。しかし、真の評価は詩作にあります。惣之助は友情にあつく、数多くの仲間と活発な創作活動を展開しましたが、特に大正十四年(一九二五)には、川崎の自宅を「詩の家」と名づけ、同人誌「詩之家」を刊行しました。同人の数は、多いときには七十名にも達しました。
 また、詩人としての才能を生かして、「赤城の子守唄」「緑の地平線」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生劇場」など、今でも多くの人々に口ずさまれている名曲を作詞し、昭和十七年(一九四二)、五十二歳の生涯を閉じました。
 この碑は、惣之助を顕彰するため、川崎市文化協会の発意によって昭和三十年十月に建立されました。碑文は詩集「華やかな散歩」の序詩から選ばれ、文字は惣之助が尊敬していた 武者小路実篤が揮毫したものです。
富士見通り(国道132号) 宮前町交差点で第一京浜を渡る 富士見通り(国道132号) 宮前町交差点で第一京浜を渡る 

宮前町交差点を渡ると市役所通りと改称される。
富士見通り(国道132号) 宮前町交差点で第一京浜を渡る 富士見通り(国道132号) 宮前町交差点で第一京浜を渡る 
富士見通り(国道132号) 宮前町交差点で第一京浜を渡る 富士見通り(国道132号) 宮前町交差点で第一京浜を渡る 

交差点角の木立ちに稲毛神社がある。
第一京浜 川崎 稲毛神社 第一京浜 川崎 稲毛神社 
川崎 稲毛神社 川崎 稲毛神社 

史跡東海道川崎宿 稲毛神社

当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
中世における当社の推移は定かでないが、応永11年(一四〇四)に大般若経書写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。
8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。
川崎 稲毛神社 川崎 稲毛神社 
川崎 稲毛神社 御由緒・御沿革 川崎 稲毛神社 御由緒・御沿革
 


 当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当地の古社であることが分かります。
 社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。
 鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜わり、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けてご社殿の造営に当たりました。
 足利時代には、当時の神主が新田家と開係が深かったため社領を二十石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年(一四〇四)の大般若経六百巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄二年(一四五八)銘の艮鰐口は河崎山王社すなわち当社に奉懸されたものです
 秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜わり、江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬を集めていました。
 例大祭「河崎山王まつり」は六月十五日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて海道名物の一つとなっていました。
川崎 稲毛神社 惣之助の碑 川崎 稲毛神社 惣之助の碑 

祭の日は佳き哉
つねに恋しき幼き人の
あえかに粧ひて
茜する都の方より
来る時なり
川崎 稲毛神社 正岡子規 句碑 川崎 稲毛神社 正岡子規 句碑 

六郷の
橋まで来たり
春の風
川崎 稲毛神社 大鳥居 川崎 稲毛神社 大鳥居 
川崎 稲毛神社 大鳥居 川崎 稲毛神社 大鳥居 

大鳥居の由来などを細かく記述している。

最初に享保三年(一七一八)に建てられ、安政二年(一八五五)の安政大地震で倒壊、嘉永二年(一八四九)に建てられたのが現存している、と書かれている。
川崎 稲毛神社 大鳥居跡 川崎 稲毛神社 大鳥居跡 

享保三年(一七一八)に建てられた大鳥居の礎石である。
川崎 稲毛神社 川崎 稲毛神社 
川崎 稲毛公園 準備中の菊花展会場 川崎 稲毛公園 準備中の菊花展会場 
川崎 稲毛公園 旧六郷橋の親柱 川崎 稲毛公園 旧六郷橋の親柱 
市役所通り 川崎市役所 市役所通り 川崎市役所 
市役所通り 市役所前交差点で市役所通りを渡る 市役所通り 市役所前交差点で市役所通りを渡る 



 
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