|
富士神社入口交差点で右折、本郷通りへ |
|
本郷通り 富士神社入口交差点 江岸寺
曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政である。以後当寺は鳥居家の江戸の菩提寺となった、忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東人国の際は、下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600))関ヶ原の戦では、家康から伏見城の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田三成等の総攻撃を受けた。これが関ヶ原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力つき討死し、城も落ちた。
その子忠政は大坂の陣では、江戸城の留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英の時、下野国壬生4万石に移封された。 |
|
本郷通り 富士神社入口交差点 江岸寺
左奥に墓所があるが、鳥居家墓所との案内もなく、ざっと見てもそれらしきものはない。 |
|
本郷通り 上富士前交差点で不忍通りを渡る |
|
本郷通り 旧町名案内 駒込上富士前町
もと伝通院領の百姓地であった。元文2年(1737)町屋を開き、延亨2年(1745)から町奉行支配となった。
富士前町(富士神社の前にある町なので名づけられた)の上の方(北方)にあるので、上富士前町と命名された。
明治維新後、旧柳沢下屋敷、藤堂下屋敷及び武家屋敷地を併せた。
町内に都立六義園がある。柳沢吉保(5代将軍綱吉の側用人・大老格)が、元禄十五年(1702)、下屋敷に完成した回遊式築山泉水庭園である。江戸大名庭園の代表的な名園である。
明治11年に、岩崎家の所有となり、昭和13年同家から東京市に寄付され、公園として一般に公開された。 |
|
本郷通り 上富士前交差点で不忍通りを渡る |
|
本郷通り 六義園入口
六義園はこの案内柱か、コンビニを目標とし、左折する。 |
|
六義園 レンガを使用した外周塀
江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたしンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。
江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変ってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。 |
|
六義園 レンガ塀沿いに進む |
|
六義園 正門
六義園は5代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が下屋敷に自ら設計し、7年かけて築いた回遊式築山泉水庭園。明治時代に三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎氏の所有となり、昭和13年に東京市に寄付され、一般公開。国の特別名勝。
9〜17時(入園は16時30分まで)。年末年始休。一般300円、65歳以上150円、小学生以下および都内在住・在学の中学生は無料。
「六義園」の庭園名について 六義とは詩道の根本を構成する六つの「体」のことである。 賦(ふ) 感想をそのまま述べたもの 比(ひ) 例をとって感想を述べたもの 興(きょう) 外物にふれて感想を述べたもの 風(ふう) 民間で行われる歌謡 雅(が) 朝廷でうたわれる雅正の詞藻 頌(しょう) 宋廟頌徳の詞藻 以上が詩経大序にいう六種の分類であり「六義」といいます。この詩経から因んで「六義園」と名付けられました。 なお、「六義園」の読み方ですが、築造当時は「むくさのその」とよんでいましたが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから「りくぎえん」と読みます。 |
|
六義園 突き当りで右折 |
|
六義園 レンガ塀沿いに進む |
|
文京学院前交差点で左折 |
|
突き当りの福音館書店前交差点で右折、白山通りへ
交差点名はないが、文京区のコミュニティバスであるB−ぐるバスが六義園を経て交差点から出てきて左折、白山通りを南下する。 |
|
JR 山手線 巣鴨駅
巣鴨駅のびゅうプラザ内に設けられた「駅からハイキング臨時受付」の機械で会員証を読み取り、イベント参加のポイントが付与される。 |