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小石川植物園〜春日通り〜大塚三丁目交差点

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江戸時代の有名人の墓所 八百屋 お七(お七の墓(円乗寺)、鈴ヶ森刑場 火炙台、目黒 お七と吉三)


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国道17号 白山一丁目交差点で右折、浄心寺坂へ 国道17号 白山一丁目交差点で右折、浄心寺坂へ 
浄心寺坂を下る 浄心寺坂を下る 

 「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ」(新撰東京名所図会)
 浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また、坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。
圓乗寺(八百屋お七の墓) 圓乗寺(八百屋お七の墓) 

 天正9年(1581)開創。浄瑠璃や歌舞伎の題材として名高い「八百屋お七」の家の菩提寺だった寺。住職が供養のために建てた墓、お七を演じた歌舞伎役者の岩井半四郎が建立した墓、近所の人が270回忌法要のために建てた墓と、3つのお七の墓がある。

圓乗寺は民家が立ち並ぶ参道の奥にあるが、左にお七の墓がまとめられている。
圓乗寺(八百屋お七の墓) 圓乗寺(八百屋お七の墓) 

お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。
お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年(1682)12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和13年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789〜1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
旧白山通り 白山下交差点 旧白山通り 白山下交差点 

写真にはないが左にある交番で白山通りと旧白山通りとが合流する。白山下交差点は合流する交番と、新旧の3ヶ所ある。圓乗寺からは旧白山通りに出る。
白山通り 白山下交差点で渡り蓮華寺坂へ 白山通り 白山下交差点で渡り蓮華寺坂へ 
蓮華寺坂を上る 蓮華寺坂を上る 
蓮華寺坂上 東洋大学 白山第2キャンパス 蓮華寺坂上 東洋大学 白山第2キャンパス 
御殿坂 小石川植物園沿いに下る 御殿坂 小石川植物園沿いに下る 
御殿坂(大坂・富士見坂) 御殿坂(大坂・富士見坂) 

 「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり、この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)
 「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士見坂ともいへり」(『江戸志』)
 白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿といわれた。
 綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。明治になってからは東京大学の付属植物園となった。

 植物園の松の花さへ咲くものを      離れてひとり棲むよみやこに
   若山牧水(1885〜1928)
東京大学 小石川植物園 東京大学 小石川植物園 

 貞享元年(1684)、将軍職に就く前の徳川綱吉の白山御殿跡地に幕府が造った「小石川御薬園」が前身。園内にはそんな長い歴史を物語る植物や遺構が今も残る。明治10年に東京大学が設立されるとともに、附属植物園として一般公開されるようになった。10月下旬は例年、サザンカ、オオバタイワンツバキ、オオシマノジギク、キミガヨランなどが開花する。
新福寺 駐車場角で左折 新福寺 駐車場角で左折 

新福寺は写真の駐車場の左にある。
植物園前交差点で千川通りを渡り、播磨坂へ 植物園前交差点で千川通りを渡り、播磨坂へ 
播磨坂の桜並木を上る 播磨坂の桜並木を上る 

千川通りから春日通りへと上る播磨坂は、桜並木の名所である。
播磨坂の桜並木を上る 播磨坂の桜並木を上る 
播磨坂 高橋泥舟(1835〜1903) 山岡鉄舟(1836〜1888) 旧居跡 播磨坂 高橋泥舟(1835〜1903) 山岡鉄舟(1836〜1888) 旧居跡 

 小石川五丁目1の下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
 泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子と結婚し、山岡家を継いだ。
 二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
 海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
播磨坂 小石川五丁目交差点で右折、春日通りへ 播磨坂 小石川五丁目交差点で右折、春日通りへ 

交差点手前に高橋泥舟、山岡鉄舟旧居跡の案内がある。昨年(平成22年)の4月のイベントで播磨坂の桜並木を歩いた時にはこの案内板はなかった。
春日通りを北上 春日通りを北上 
春日通り 茗荷谷駅前交差点 春日通り 茗荷谷駅前交差点 
春日通り 跡見学園 春日通り 跡見学園 

名門の跡見学園女子大、高校、中学である。
春日通り 大塚一丁目交差点 春日通り 大塚一丁目交差点 
春日通り お茶の水女子大 春日通り お茶の水女子大 
春日通り 大塚三丁目交差点で左折、不忍通りへ 春日通り 大塚三丁目交差点で左折、不忍通りへ 



 
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