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芭蕉記念館〜萬年橋〜清澄三丁目交差点

【関連サイト】   歴史点描 有名人の足跡 松尾芭蕉


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新大橋通り 新大橋交差点で右折、万年橋通りへ 新大橋通り 新大橋交差点で右折、万年橋通りへ 
新大橋通り 新大橋交差点で左折すると一の橋通りへ 新大橋通り 新大橋交差点で左折すると一の橋通りへ 

一の橋通りは、回向院近くの京葉道路の両国一丁目交差点まで続く一ツ目通りである。

 明暦三年(1657)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行いました。万治二年(1659)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661)に完了しました。開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、二之橋、‥‥‥五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。
ニッ目通りは堅川二之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、ニッ目の橋通りを経て、二ッ目通りと呼ぼれるようになりました。江戸名所図絵には五間堀に架かる立波な弥勒寺橋と共に堅川二之橋通りの名が残されています。
万年橋通りを南下 万年橋通りを南下 
万年橋通り 江東区芭蕉記念館 万年橋通り 江東区芭蕉記念館 

万年橋通りから隅田川河畔にかけて、松尾芭蕉の遺構が多く残っている。
万年橋通り 江東区芭蕉記念館 万年橋通り 江東区芭蕉記念館 

由来
新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家らの寄贈品を中心に、芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。また、研修室(和室)は俳句や短歌を楽しむ人たちに利用されています。
 庭園には、池や滝、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられ、築山にほこらと「古池や……」の句碑があります。
万年橋通り 江東区芭蕉記念館 万年橋通り 江東区芭蕉記念館 
万年橋通りを南下 万年橋通りを南下 

さすがにソメイヨシノなどの桜は葉桜になっているが、八重桜はまだまだ盛りである。
万年橋通りを南下 万年橋通り 右折すると芭蕉庵跡 

萬年橋手前の小道を進むと、隅田川沿いに松尾芭蕉像などがある芭蕉庵史跡展望庭園などがある。
万年橋通り 小名木川に架かる萬年橋 万年橋通り 小名木川に架かる萬年橋 
万年橋通り 小名木川に架かる萬年橋 万年橋通り 小名木川に架かる萬年橋 
北の湖部屋 北の湖部屋 

万年橋通りが清洲橋通りに出る少し前の左手に、黒のまわしを干す北の湖部屋が見えたので立ち寄った。
かつての大嶽部屋・大鵬道場 かつての大嶽部屋・大鵬道場 

北の湖部屋の少し先に大嶽部屋・大鵬道場があったはずだが、と探したが見つからない。マンション建築中の警備員に聞いたら、このマンションだと言われた。
大嶽親方(貴闘力)が野球賭博で解雇されたが、弟子が跡を継いでおり、練習はどこでやっているのか分からない。
横綱通りから清洲橋通りへ 横綱通りから清洲橋通りへ 
横綱通り 突き当たりで左折、清洲橋通りへ 横綱通り 突き当たりで左折、清洲橋通りへ 

信号はあるが、交差点名はない。
清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 
清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 



 
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