永田町〜半蔵門通り〜半蔵門駅
【関連サイト】 | 東京メトロ(旧営団) 半蔵門線(平成15年) | |
青山通り 赤坂見附跡 ![]() |
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青山通り 赤坂見附跡 ![]() 赤坂プリンスホテル沿いの石垣にある。 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門のー部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。' 赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之ににより、この枡形石垣が造られ、同6年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。 |
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青山通り 赤坂見附跡 ![]() |
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青山通り 平河町交差点 ![]() 交差点を渡って右折すると、ビルの後ろに自民党本部がある。 |
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青山通り 隼町交差点で左折、半蔵門通りへ ![]() 隼町交差点の左手の白い角ばったビルは最高裁判所で、青山通りを渡った所には民主党本部がある。 交差点を左折すると国立劇場との案内版があるが、正面入り口は三宅坂に出て左折、半蔵門手前にある。 |
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半蔵門通り ![]() 片道1車線の道で、左手の最高裁や国立劇場側は隼町、左側は平河町で、半蔵門の西側の道を歩いて北上する。 |
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半蔵門通り 国立劇場(国立演芸場) ![]() |
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半蔵門通り 国立劇場(国立演芸場) ![]() |
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半蔵門通り ![]() 青山通りや、少し東側を並行している内堀通りとは全く違い、車もほとんど通らない。 |
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半蔵門通り 町名由来 平河町2丁目 ![]() 平河町の名前は、菅原道具公を祀った平河天満宮が起源であるといわれています。しかし、この界隈が「ヒラカワ」と呼ばれるようになったのは、明治に入ってからのことです。 江戸時代のこの一帯は、旗本の屋敷が立ち並ぶ武家地でした。一方、この界隈には狭いながらも商人や職人が集まる町屋も存在していました。古絵図を見てみると、武家地の北側に、湯島亀有町代地や教授所附町屋敷、木挽町四丁目裏上納地替地など、独特の名をもつ町が見受けられます。 |
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半蔵門通り 町名由来 平河町2丁目 ![]() |
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半蔵門通り 町名由来 平河町2丁目 ![]() |
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半蔵門通り 町名由来 麹町2丁目 ![]() この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小道小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向かう「国府路」があったからともいわれています。 麹町は、麹町大通り(新宿通り)の両側に形成された町でした。明治以降、このあたりは商店街として栄えましたが、現在ではオフィスビルの立ち並ぶ都心のビジネス街へと姿を変えています。 |
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半蔵門通り 麹町大通り(新宿通り)を渡る ![]() 半蔵門駅の南端が麹町通りの下にある。 |
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半蔵門通り ![]() |
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半蔵門通り 永井坂 ![]() この坂を永井坂といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。 嘉永四年(一八五一)の「東都番町大絵図」という切絵図をみますと永井勘九郎・永井奥之助という旗本か道をはさんで、ちょうどむかいあっているかのようにみえます。 |
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半蔵門通り 永井坂 ![]() |
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半蔵門通り 町名由来 一番町 ![]() 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に大番組に属する旗本たちを住まわせました。ここから「番町」という地名が生まれ、この界隈には多くの武家屋敷がありました。 文化人たちにも一番町は愛されていました。小説家、劇作家として名高く、画家でもあった武者小路実篤はこの地に生まれ、結婚してからもしばらくその屋敷に住んでいました。「荒城の月」「花」などの歌曲で知られる作曲家の滝廉太郎や、「からたちの花」「赤とんぼ」などを作曲し、西洋音楽の普及と発展に努めた山田耕筰もまた一番町の住人です。 |
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東京メトロ(旧営団) 半蔵門線 半蔵門駅 ![]() |