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正久保通り(都道441号) 突き当りで右折
都道441号は未通であるが、計画ではこのまま直進して環七通りの武蔵野病院前交差点から要町通りとなる。有楽町線は地下ではあるがこの計画通りの経路を走る。 |
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正久保通り 石神井川に架かる正久保橋を渡る |
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正久保通り 裸木の桜並木が続く石神井川 |
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正久保通りを南下 |
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正久保通り 開進三中入口交差点 |
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正久保通り 開進第三小学校前 練馬区独立記念碑、埼玉道 |
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正久保通り 開進第三小学校前 練馬区独立記念碑(練馬区役所発祥の地)
板橋区から分離した、と言うだけなのに「独立」とは大袈裟な気がするのは部外者だからかもしれない。大田区は「大」森区と蒲「田」区を合体させたものだが、独立運動があった、とは寡聞にして聞かない。
練馬区のホームページにはまさしく「独立」のための苦心談が縷々と書き綴られており、要するに住民数のバランスから戦前に大板橋区にされたが、広大だから分離して練馬の名を冠した区を作りたい、という地域エゴのようにも見える。板橋区のホームページには単に住民の利便性向上のため分離したとしかない。 |
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正久保通り 開進第三小学校前 練馬区独立記念碑(練馬区役所発祥の地)
練馬区は昭和二十二年八月一日板橋区より分離独立し、この地に練馬区役所を設けた。
昭和二十二年十月議員三十六名による第一回の練馬区議会がこの地において開催された。
ここに練馬区独立三十周年を記念しこの碑を建立する。 |
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正久保通り 開進第三小学校前 練馬区独立記念碑(練馬区役所発祥の地)
練馬区は昭和22年8月1日に板橋区から分離独立し、この地に練馬区役所を設けました。
この記念碑は、昭和52年に練馬区立開進第三小学校の校庭に練馬区独立30周年を記念し建立されたものですが、練馬区独立60周年を機に東側道路面に移設し、広く区民の皆様に親しんでいただくことにしました。 |
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正久保通り 開進第三小学校前 埼玉道
埼玉道は、清戸道(千川通り)を江古田駅の南、二又で北西へ分かれて、埼玉県戸田市方面に至る道です。二又は下練馬・上板橋・中新井の三か村の村境でした。
二又から西武池袋線の踏切を越えると間もなく庚申塔があります。明和二年(一七六五)羽根沢の人たちが造立したものです。さらに環七通りを過ぎ、開進第三小学校脇を北へ進むと正久保橋に出ます。新道は橋を渡り北西へ真直ぐ伸びていますが、旧道は東へ迂回して光伝寺脇へ出ます。光伝寺には昔の正久保橋の親柱が保存されており、石橋を架けて村人の労苦を救った僧教海の功績を今に伝えています。
道は旧下練馬村の鎮守氷川神社の北を回り、再び新道に出ます。途中右手に宝永二年(一七〇五)の庚申塔や正徳三年(一七一三)の地蔵菩薩像が見えます。
新道は開進第一小学校の南で旧下練馬道と交叉し、さらに直進して丸久保で大山街道と交わります。傍らに道しるべを兼ねた馬頭観音が建っており「高田二里 ぞうし賀や二里」と彫ってあります。これまでの道を逆に辿ると高田・雑司ヶ谷へ着き、別名高田道と言って雑司ヶ谷鬼子母神への信仰の道でもありました。
埼玉道は、旧上・下練馬村の境(北町と田柄の境)を北へのぼり、川越街道を渡って下赤塚から荒川早瀬の渡しへ出ます。渡しを越すと埼玉県です。埼玉道と呼ばれるゆえんです。 |
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正久保通り 開進第三小学校前 埼玉道
正久保通り(都道441号)の開進第一小学校前にある埼玉道碑と内容は同じである。 |
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正久保通り 江古田歩道橋で左折、環七通りへ |
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正久保通り 江古田歩道橋で左折、環七通りへ |
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環七通り 西武有楽町線 新桜台駅
新桜台駅は江古田歩道橋付近の地下にある。 |
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環七通り 羽沢歩道橋 |
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環七通り 武蔵野病院前交差点で右折、要町通り(都道441号)へ |
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環七通り 武蔵野病院前交差点で右折、要町通り(都道441号)へ
都道411号は正久保通りとして氷川台駅の先で途切れ、この交差点から要町通りとなって復活する。交差点の左には民家が建ち、工事の影も形もない。 |
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要町通り(都道441号) 広々とした歩道を東南に進む
要町通りは、武蔵野病院前交差点から小竹向原駅まで車道と歩道とが完全に分離されている。道路沿いにコンクリート塀があり、その横に並木道があってその横に歩道がある。車の騒音はないものの、その理由は駅前の碑で知るまで疑問だった。 |
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要町通り(都道441号) 広々とした歩道を東南に進む |
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東京メトロ 有楽町線/副都心線 小竹向原駅
要町通りはこの付近はトンネルになっており、道路上は自転車置き場などになっている。その横に三六(さぶろく)道路の碑が建っている。要町通りは都道放射36号線である。 |
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要町通り(都道441号) 小竹向原駅前 三六道路
武蔵野の面影を残したこの地に、地下鉄とともに道路が計画された。 生活の利便さと引替えにもたらされる環境の悪化を憂えた地域の人々は、良好な環境と生活を守るために立ち上り団体を結成し、悩み、考え、学び、行動し苦渋の選択を行った。
行政と住民団体との十数年に及ぶ相克と合意づくりへの情熱により「校庭部分の地下化」、「歩道の拡幅」、「緑豊かな堤と遊歩道」、「無電柱化」、「自転車置場」等を実現し、町づくりの一環としてこの道路が今ここに完成した。
都と住民との英知と努力の結晶として生まれたこの道路が、今後の道路建設のひとつの方向を示す道しるべとして、末永く健全に守られることを希い、ひたむきに取りくんだ多くの人々の熱意と行動の証しとしてこの碑を置く。 |