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特例都道(中央官衙)176号 突き当りの憲政記念館前交差点 |
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憲政記念館前交差点から見た国会議事堂前の道路
正式には特例都道(中央官衙)176号という大げさな名前だが、普通は国会議事堂前の道路、と言われている。
道路の奥右に国会議事堂の正門がある。 |
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国会前庭(北地区) 憲政記念館 |
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国会前庭(北地区) 憲政記念館 「人生の本舞台」石碑
人生の本舞台は常に将来に在り 九四翁行雄 |
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国会前庭(北地区) 憲政記念館 尾崎行雄(咢堂)像
第1回議会以来25回連続して当選し、憲政の神様と称される尾崎行雄(咢堂)像である。
しかし、その品格の無さゆえ明治天皇は嫌っていた、と言われている。 |
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国会前庭(北地区) 憲政記念館 「人生の本舞台」石碑
この記念碑は、尾崎記念会館(現 憲政記念館)設立の際、スウェーデンから寄贈された花崗岩(幅3.6m・高さ1.3m)て製作され、「憲政の神様」と称えられた尾崎行雄の句が刻まれている。
人生の本舞台は常に将来に在り
九四翁行雄
「現在なしていることは、すべて将来に備えてのことてある」という意味で昭和8年(1933)秋、寸暇を得て郷里三重県に帰った尾崎行雄は、自邸に落ち着き、政争に明げ暮れた、76年間を振り返り、「老成に安んせず将来に目を向けねばならぬ」と自戒を込めてこの警句をつくった晩年の揮こうである。 裏面には尾崎行雄の略歴と業績がしるされている。 |
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国会前庭(北地区) 憲政記念館を出て洋式庭園へ
洋式庭園に入ると三権分立時計塔があり、由来の名盤が下に飾られている。
この時計塔は、尾崎記念会館(現憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔前面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和35年(1960)7月に完成した。 三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された。 時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。 チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。 |
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国会前庭(北地区) 洋式庭園 |
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国会前庭(北地区) 洋式庭園 日本水準原点標庫 |
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国会前庭(北地区) 洋式庭園 日本水準原点標庫
日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治二十四年(一八九一)五月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者はエ部大学校第一期生の佐立七次郎(一八五六〜一九二二)。建物は石造で平屋建。建築面積は一四・九uで、軒高三・七五m、総高四.三m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフで特徽づけられる。 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。 |
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国会前庭(北地区) 洋式庭園 日本水準原点標庫
日本水準原点
日本水準原点は、わが国の土地の標高を測定する基準点である。明治24年(1891年)5月にこの場所に設置した。
日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は、明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、当時24.500メートルと定めた。
その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴い、その標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(20111年)3月11日の東北地方太平洋地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.390に改正した。
ちょうど1年前に訪れた時は、関東大震災での改正経緯はなくて24.4140メートルだったが、今回はさらに東日本大震災での改正も記載されている。 |
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国会前庭(北地区) 洋式庭園 日本水準原点標庫
ローマ風神殿建築で、梁には菊の御紋章に挟まれて「大日本帝国」と刻まれている。 |
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国会前庭(北地区) 洋式庭園 入口
入口を出ると特例都道(中央官衙)176号で、内堀通りの国会前交差点から国会正門前交差点を経て平河町交差点に至る。 |
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特例都道(中央官衙)176号を東進 |
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特例都道(中央官衙)176号 国会前交差点で内堀通りに突き当たる
桜田門には右折するが、井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)に寄るため左折する。 |
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内堀通り 国会前交差点 井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸) |
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内堀通り 国会前交差点 井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸) 江戸の名水「櫻の井」
「櫻の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にあったが、ここは加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えられている。三連式釣瓶井戸で、縦約一.八メートル、横約三メートルの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。
江戸名所図会に絵入りで紹介され、歌川(安藤)広重の「東都名所」の「外櫻田弁慶櫻の井」(天保十四年(一八四三))(図)にも描かれている。安政七年(一八六〇)三月三日には大老井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中、暗殺された。 大正七年(一九一八)史蹟に定められ、東京都は昭和三十年(一九五五)旧跡指定。
昭和四十三年(一九六八)道路工事のため交差点内から原形のまま十メートル離れた現在地に移設復元された。 |
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内堀通り 国会前交差点 井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸) 江戸の名水「櫻の井」 |
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内堀通り 国会前交差点 井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)
この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は二代忠広の時に改易され、屋敷も没収されました。 その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)。 幕末の大老井伊直弼は、万延元年(一八六〇)三月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。 |
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内堀通り 国会前交差点 井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸) |
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内堀通り 国会前交差点に戻り桜田門へ |