|
団子坂を上る |
|
団子坂を上る
潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」 (御府内備考)
「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 |
|
団子坂上交差点で右折、千駄木「くらしのみち」へ
交差点を少し進んだ左手に森鴎外旧居の観潮楼があり、さらに進むと駒込大観音(光源寺)前を通り大観音通りとなって本郷通りを渡り、白山上交差点に至る。 |
|
団子坂上交差点で右折、千駄木「くらしのみち」へ |
|
千駄木「くらしのみち」 特養ホーム 千駄木の郷
コミュニティバスの特徴の一つであるバス停であり、正面入口脇にある。換言すれば、このバスがないと交通の便が悪い。 |
|
文京区 Bーグルバス #18 特養ホーム 千駄木の郷 |
|
千駄木「くらしのみち」 高村光太郎旧居跡
高村光太郎(明治16年(1883)〜昭和31年(1956))は彫刻家・詩人・歌人。彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時に、ここからすぐ近く(現・千駄木5−20−6)に移り、そこで育った。
東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科を卒業して欧米に留学、ロダンに傾倒する。詩人としては、在学中「新詩社」に加わり、「明星」に寄稿し、「パンの会」にも参加した。
明治45年(1912)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造・外観は黒塗りの風変りなアトリエが完成した。以後、ここで数多くの彫刻・詩などの作品が生まれた。大正3年(1914)長沼千恵子と結婚、昭和13年(1938)死別後は一人で暮らした。
昭和20年(1945)4月の戦災で住居は焼失し、岩手県花巻に疎開した。昭和27年中野区桃園町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和31年(1956)4月、73歳で没。墓地は豊島区駒込の染井霊園。 |
|
文京区 Bーグルバス #19 千駄木小学校 |
|
文京区 Bーグルバス #19 千駄木小学校
バス停の数では半分であるが、現在地は上のループの右上角に当たる。感覚的には半分までは来ていない。 |
|
千駄木「くらしのみち」 案内板
道路は、かつて交通のインフラであると同時に、地域の人々が集い、子供の遊び場ともなる身近な空間でした。
くらしのみちゾーン整備においては、身近な道路にかつてのような憩いの空間を取り戻すとともに、地域住民の方々の安全を確保する面的かつ総合的な交通安全対策を展開しています。
地区内には、公共施設や史跡などが数多く有り、施設利用者や見学者が多く訪れます。しかし、狭い道路が多く、歩道がある道路はわずかしがないため、地区内外の皆様から交通安全のための整備が求められていました。そこで、地域の皆様で構成された協議会で検討を行い、交通規制の見直し、交差点の明確化、無電柱化などの整備を行いました。 |
|
千駄木「くらしのみち」を走るBーグルバス |
|
千駄木「くらしのみち」 動坂上交差点で白山小台線を渡る
交差点は5差路で、一見「くらしのみち」から直進するように見えるが、斜め左上の交番脇の道を進む。 |
|
千駄木「くらしのみち」 動坂上交差点で交番脇の道を進む |
|
動坂上交差点 動坂(不動坂・堂坂)
「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(「江戸旧所図会」)
坂上の北側に、日限地蔵堂があったが、ここは目赤不動尊の旧跡である。三代将軍家光の目にとまり、本駒込一丁目に移った。これが江戸時代有名な五色の不動一つ目赤不動を祭る南谷寺である。 |
|
文京区 Bーグルバス #20 駒込病院
動坂上交差点の左に小公園があり、このバス停はそのはずれで、先に駒込病院が見える。 |
|
文京区 Bーグルバス #21 本駒込三丁目
住宅街を進み、本郷通りに向かう。 |
|
富士神社入口交差点で右折、本郷通りへ
交差点手前右に富士神社があり、反対側にバス停がある。 |
|
文京区 Bーグルバス #22 富士神社前 |
|
富士神社
富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(一五七三)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。
寛永六年(一六二九)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間神社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
社伝によれば、延文年間(一三五六〜六一)は既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方復円の古墳といわれる。
富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧五月末になると富士講の仲間の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士
さん」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。 |
|
富士神社 富士講の遺構
階段は急な上に石段の幅が狭く、手すりを使わないと危険である。 |
|
富士神社
社殿は倉庫のようで、気が抜ける。 |
|
富士神社入口交差点で右折、本郷通りへ |
|
本郷通り 江岸寺
富士神社入口交差点で右折、本郷通りへ入ってすぐの所にある。 |
|
本郷通り 江岸寺
曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政である。以後当寺は鳥居家の江戸の菩提寺となった、忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東人国の際は、下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦では、家康から伏見城の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田三成等の総攻撃を受けた。これが関ヶ原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力つき討死し、城も落ちた。
その子忠政は大坂の陣では、江戸城の留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英の時、下野国壬生4万石に移封された。 |
|
文京区 Bーグルバス #23 昭和小学校(上富士前) |