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北めぐりん 始発バス停 浅草駅
北めぐりんは、浅草駅から隅田公園、今戸神社、今戸一丁目、吉原大門、三ノ輪駅、一葉記念館入口、根岸三丁目、鶯谷駅南、入谷ふれあい市場前、千束二丁目、千束小学校前、浅草寺北、浅草駅に至る巡回コースを走る。東西めぐりんとは#1浅草駅で、南めぐりんとは#27生涯学習センター北で乗り換えることが出来る。
駅数 38、営業距離 10.3km
【撮影記録】
平成21年 8月 15日 晴れ
10:40〜13:30 14,700歩 (概算 11.8km)
30℃を超してはいるが湿度が低く、初めて夏らしい一日だった。4年前とコースがだいぶ変わっており、事前のチェックはしていたものの少し心配だった。 |
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北めぐりん 始発バス停 浅草駅
めぐりんはコースにより色は変わるが、デザインはレトロ調である。15分おきに運行されているが、頻繁に走っているかの印象を受ける。
人気の谷中巡りの東西めぐりんと同じバス停のため、そちらに乗る人の長い列は出来ているが、北めぐりんは空いている。 |
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江戸通り 東武伊勢崎線鉄橋下を進み、北上 |
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北めぐりん #2 花川戸 |
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北めぐりん #2 花川戸
現在地は右端の縦線の下から2番目である。一番下は始発の浅草駅である。 |
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江戸通り 二天門通り(浅草観音東参道)
二天門通りとなっているが、西に進んで馬道通りを渡った所に二天門がある。 |
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江戸通り 言問橋西交差点 斜め右上の橋場通りへ
言問橋西交差点は5差路で、江戸通りは直角に右折して言問橋を渡り東進、言問通りはこの交差点を始点として西に進む。
めぐりんバスは斜め右上の橋場通り(都道314号(言問大谷田線))を進む。 |
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江戸通り 言問橋西交差点 斜め右上の橋場通りへ |
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北めぐりん #3 隅田公園 |
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橋場通り 待乳山聖天
待乳山聖天は、隅田公園 リバーサイド スポーツセンターの斜め前、山谷堀公園の手前にある。 |
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橋場通り 待乳山聖天 |
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橋場通り 山谷堀公園
山谷堀がいつ頃掘られたかはっきりしないが江戸の吉原との関係からみてもおそらく江戸初期にできたものであろう。
都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約七〇〇メートルにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。
当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名、山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを使う遊興はぜいたくとされ、まさにおだいじん遊びだった。
堀の上流の方から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。
現在は、水と緑の懇いの公園として整備されている。 |
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橋場通り 山谷堀公園 |
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橋場通り 隅田公園 リバーサイド スポーツセンター |
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橋場通り 左斜めの道に進む |
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北めぐりん #4 リバーサイド スポーツセンター前 |
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今戸神社
当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(一〇六三)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水ハ幡を鎌倉鶴ケ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
応神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓征伐の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。
従って応神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比盗_社の御祭神にして、嘉吉元年(一四四一)こ千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。 |
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今戸神社 |
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今戸神社 ニンニンパンダバス 今戸神社前バス停
ニンニンパンダバスはパンダを模し、浅草寺界隈を巡る無料バスで、2時間で3本のペースで運行する。
このバスの運行主体などはホームページを調べても分からず、変わったバスが走っている、と言うブログばかりである。ブログによれば、「ニンニン」とはパンダの名前だそうである。
後日ニンニンパンダバスの運行ルートと地図を比較し、苦労しながら全経路を歩いた。それは別サイトにまとめた。 |
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今戸神社 ニンニンパンダバス 今戸神社前バス停 |
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今戸神社 |
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今戸神社 沖田総司終焉之地碑
沖田総司は当地に居住していた御典医松木良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている
碑字は橘右近書
橘右近は落語家で、寄席文字で有名。 |
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今戸神社 沖田総司終焉之地碑 |
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今戸神社 今戸焼発祥之地碑
今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座に奉納した四十二名の陶工らの名が刻まれており、数多く軒を並べていたことが伺える。
今戸焼の起源は定かではないが、天正年間(一五七三〜九一)に千葉氏のの家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったとも思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である「江戸名所図会」には瓦作りの挿絵がみられ、隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。
近年の江戸遺跡の調査によって施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。
関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。 |
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今戸神社 今戸焼発祥之地碑 |
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今戸神社 招き猫
招き猫の起源は今戸神社と、豪徳寺があるが、豪徳寺の方が有名である。
お江戸は浅草
今戸で生まれ
愛され続ける
招き猫 |