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上野公園(上野大仏〜彰義隊墓所・西郷隆盛銅像)〜上野駅 不忍口

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東京、横浜の桜並木探訪 4部作H2304(上野東照宮〜桜並木〜上野駅)


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上野公園 名所の桜並木 上野公園 名所の桜並木 

花見の時期にはこの広々とした道路の両側はブルーシートで覆われ、いたるところで宴が行われている。また満開の桜が美しいアーケードを作る。
上野公園 桜並木 上野大仏、パゴタ 上野公園 桜並木 上野大仏、パゴタ 

桜並木の右手奥の歩道にあり、注意していれば上野大仏の大きな看板を見つけることができるが、普通に歩いていると見落とす。
上野公園 桜並木 上野大仏、パゴタ 上野公園 桜並木 上野大仏、パゴタ 

上野大仏とパゴダ

 正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。
 最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永八年(一六三一)に造立した二メートル八十センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保四年(一六四七)の地震により倒壊してしまった。
 明暦〜万治年間(一六五五〜一六六〇)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、三メートル六十センチをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来坐像を造立した。その後、元禄十一年(一六九八)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保十二年(一八四一)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、一年半後の天保十四年には、最初の造立者堀直寄の子孫直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政二年(一八五五)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。
 しかし、明治六年上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に同九年、同十年の二説あり)、大正十二年の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遣った。寛永寺では、昭和四十七年丘陵上の左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。
 なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。
 また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和四十二年三月着工、同年六月に完成した。高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあつた薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
上野公園 桜並木 上野大仏、パゴタ 上野公園 桜並木 上野大仏、パゴタ 

大佛パゴダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光月光二菩薩
    (旧上野東照宮薬師堂ご本尊)

沿革
 寛永八年(一六三一年)堀丹後守直寄公が
 釈迦如来尊像を当山に建立せられ、一六六〇
 年頃青銅の大仏に改鋳された。
 大正十二年、大震災で破損のため撤去する。
パゴダ建立

 発願者 上野観光連盟
 寄進者 大成建設株式会社
 昭和四十二年七月吉日竣工
上野公園 桜並木 パゴタ 上野公園 桜並木 パゴタ 
上野公園 桜並木 上野大仏 上野公園 桜並木 上野大仏 

普通は仰ぎ見る大仏の顔だけのせいもあるが、何度見ても薄気味悪い、との印象を受ける。特に木立の中にあるため、天気が悪い時はその感を強くする。
上野公園 桜並木 上野大仏 上野公園 桜並木 上野大仏 

上野大仏略記

寛永八年(一六三一年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。

青銅大仏
明暦・万治の頃(一六五五〜六〇年)木食僧淨雲師により銅佛に改められた。

仏殿
元禄十一年(一六九八年)露座の大仏に仏殿が建立された。

改鋳
天保十二年(一八四一年)火災に遭い、天保十四年、末孫丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。

大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和四七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
上野公園 桜並木 上野大仏 上野公園 桜並木 上野大仏 

何時の時点での大仏か分からないが、全身が写っていることから関東大震災以前とおもわれる。しかし、当時カラー写真での撮影が可能だったのだろうか、との疑問もある。
上野公園 桜並木 五條天神社前で左折 上野公園 桜並木 五條天神社前で左折 

上野公園の桜並木の外れである。
上野公園 桜並木 五條天神社前で左折 上野公園 桜並木 五條天神社前で左折 
上野公園 摺鉢山古墳前で右折 上野公園 摺鉢山古墳前で右折 

直進すると日本芸術院会館に出る。

 摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているるところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などか出土し、約千五百年前の前方後円形式の古噴と考えられている。
 現存長七十m、後円部径四十三m、前方部幅は最大部で二十三m。後円部の道路との比高は五mである。
 丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。
 五條天神の創立年代は不明であるが、尭恵法師は『北国紀行』のなかで、文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、
 契きて たれかは春の
  初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
 清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(一六八八〜一七〇三)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。
 現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。
上野公園 清水観音堂 上野公園 清水観音堂 
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 

一瞬目を疑った。鬱蒼とした木立に覆われた彰義隊墓所が丸裸になっている。
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 

 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が一日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千佳円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
上野公園 彰義隊墓所から見える西郷隆盛銅像 上野公園 彰義隊墓所から見える西郷隆盛銅像 
上野公園 西郷像前のUENO3153(旧聚楽台)への入口 上野公園 西郷像前のUENO3153(旧聚楽台)への入口 

UENO3153はかつての聚楽台を閉鎖し、新たに建て直した飲食店ビルである。3153は言うまでもなく「西郷さん」である。
上野公園 西郷隆盛銅像 上野公園 西郷隆盛銅像 

公園整備のため木立のほとんどを切り払ったため、銅像がぽつねんと立っている、という印象を受ける。
上野公園 西郷像前のUENO3153(旧聚楽台)への入口 上野公園 西郷像前のUENO3153(旧聚楽台)への入口 

エレベーターはなく、階段を歩いて下りる。
上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 

各階は長いフロアーで、その中に数軒の焼肉や中華、和食などの店が並ぶ。
上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 
上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 

かつての聚楽台に比べると少しはきれいになったかな、とも思うが、デザインが垢抜けないところは上野らしい。
JR 山手線 上野駅 不忍口 JR 山手線 上野駅 不忍口 



 
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