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両国界隈(両国回向院〜本所松坂町 吉良邸跡〜江戸東京博物館)

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 国技館通り 名力士の手形や像 国技館通り 名力士の手形や像 

手形には力士名が書かれているが、残念なことに力士像についての説明がない。明らかに大鵬と分かるものもあるが、手形の数人の誰かだろう、と想像するだけである。
国技館通り 両国二丁目交差点で京葉道路を渡り、両国回向院へ 国技館通り 両国二丁目交差点で京葉道路を渡り、両国回向院へ 
京葉道路 両国二丁目交差点 両国回向院 京葉道路 両国二丁目交差点 両国回向院 

両国回向院は、京葉道路と国技館通りとの交差点にある。

 明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
京葉道路 両国二丁目交差点 両国回向院 京葉道路 両国二丁目交差点 両国回向院 

 伝統の町両国と鼠小僧次郎吉!

  ここ両国シテイコアの界隈では、江戸の昔、曲芸、軽業、相撲などの小屋掛けが立ち並び様々な芸能が連日演じ
 られていました。
 六回までの「大江戸両国・からくり祭」を「大江戸両国・伝統祭」と改名し、当時の江戸のにぎわいを今に再現し、より広く伝統文化を伝えべく関催致します。
 その昔、両国の町の一隅に鼠小僧次郎吉が住んでおり、今も回向院の地に眠っています。鼠小僧は泥棒でしたが、金持ちから盗んだ金を貧しい人々に分け与えていたと言われています。
 鼠小僧の身の軽さは、今日の手妻、軽業、曲芸に通じるものがあるかもしれません。また、庶民の味方という心意気も立派です。
 これからも、前回と同様に「大江戸両国・伝統祭」をここ両国に関わる「鼠小僧次郎吉」をシンボルマークとし開催して行きます。
 どうぞよろしくごひいきのほどお願い申し上げます。

左端上にシンボルマークのネズミがある。
両国回向院 相撲関係石碑群<力塚> 両国回向院 相撲関係石碑群<力塚> 

隅田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興業にさかのぼります。以後、畿つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
 天保四年(一八三三)一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時この場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
両国回向院 相撲関係石碑群<力塚> 両国回向院 相撲関係石碑群<力塚> 
両国回向院 念仏堂・両国幼稚園 新築工事 両国回向院 念仏堂・両国幼稚園 新築工事 

初めは一週間後に始まる善光寺の出開帳のためかと思ったが、それにしては工事が遅すぎると思った。前年12月の義士祭の時には工事用の壁に出開帳の案内があったことも誤解の一因である。
両国回向院 念仏堂・両国幼稚園 新築工事 両国回向院 念仏堂・両国幼稚園 新築工事 
両国回向院 史跡記念墓地 両国回向院 史跡記念墓地 

通常の墓地の手前の一角に鼠小僧次郎吉の墓や海難供養碑群などの史跡記念墓地がある。
両国回向院 史跡記念墓地 海難供養碑 両国回向院 史跡記念墓地 海難供養碑 

 回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができます。
 六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸崎代の白子港は、木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輪送の拠点として繁栄していました。

正面の石柱の説明は以下のとおり。

@「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔
 文化十年(一八一三)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政三年(一八五六)に再建。正面の名号は増上寺六十六世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。
両国回向院 史跡記念墓地 海難供養碑 両国回向院 史跡記念墓地 海難供養碑 
両国回向院 史跡記念墓地 鼠小僧次郎吉の墓 両国回向院 史跡記念墓地 鼠小僧次郎吉の墓 

昔から鼠小僧次郎吉の墓を欠いてそのかけらを持つと博打に負けないとか、受験生の合格祈願に使われる。そのため、前に専用の石(前立石)を置き、それを欠くように、との案内が立っている。
京葉道路 両国二丁目交差点 両国シティコア(旧国技館) 土俵の位置 京葉道路 両国二丁目交差点 両国シティコア(旧国技館) 土俵の位置 

回向院の隣にある両国シティコアの中庭にあり、特に説明もないので分かりにくい。自転車置き場と化しているが、旧国技館の土俵の位置を示している。

70年安保世代としては、旧国技館と言うよりも、日大紛争の舞台だった日大講堂の方が馴染み深い。
京葉道路 エネオス ガソリンスタンドで右折 京葉道路 エネオス ガソリンスタンドで右折 

本所松坂町の吉良邸跡に行く道筋は非常に分かりにくい。むしろ回向院の史跡記念墓地横の裏門からの方が一本道で分かりやすい。
信号付き交差点手前の交差点で左折 信号付き交差点手前の交差点で左折 

吉良邸跡に行くための案内表示は全く無く、この交差点を曲がると初めて案内板がある。泉岳寺は都営浅草線駅に近いこともあるが、すぐ場所が分かるのに墨田区の対応が疑われる。
本所松坂町 吉良邸跡への案内板 本所松坂町 吉良邸跡への案内板 

交差点を曲がると本所松坂町の吉良邸跡である本所松坂町公園と、勝海舟生誕の地の碑がある両国公園への案内板がある。しかし、交差点を曲がるまでの案内がないので価値がない。
 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 

本所松坂町公園は小公園で、本所義士祭や、ウォーキングのイベントなどがあると中に入るのも大変である。
 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 

本所松坂町公園由来

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
昭和九年三月地元町会の有志が、世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷杜などの遺蹟があリ当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。
 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 
本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 
本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 吉良上野介義央公座像 本所松坂町 吉良邸跡(本所松坂町公園) 吉良上野介義央公座像 

経緯が書かれた銅版が像の後ろにあるが、写真を撮ったり読むのは難しい。

 平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。
 岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山
隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。
 愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、一六九〇年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿、形についてはこれをモデルにそのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。
 吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。
 据え付けた台座は御影石を使用する。
本像制作に当たって、両国三丁目町会、吉良邸跡保存会、東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十二年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。
 また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現 西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。
 平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。
突き当りの両国小学校で左折、北上 突き当りの両国小学校で左折、北上 
 両国小学校 正門脇 芥川龍之介 文学碑(杜子春) 両国小学校 正門脇 芥川龍之介 文学碑(杜子春) 

正門を直進すると京葉道路に出るが、右折して両国小学校沿いに進むと勝海舟生誕の地の碑がある両国公園に着く。
 両国小学校 正門脇 芥川龍之介 文学碑(杜子春) 両国小学校 正門脇 芥川龍之介 文学碑(杜子春) 

 芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。
 芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
 本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだで場所で、「大道寺伸輔の
半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思想」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。
 この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。
 突き当りの両国三丁目交差点で右折、京葉道路へ 突き当りの両国三丁目交差点で右折、京葉道路へ 
京葉道路 移転解体中の本所警察署 京葉道路 移転解体中の本所警察署 

今年(平成25年)3月に春日通りと四ツ目通りとが交差する横川交番前交差点近くに移転した。

以前は木立の付近に関東大震災での殉職警官の慰霊碑があった。関東大震災で最大の犠牲者を出した横網町公園(旧陸軍被服廠跡)は、本所警察署の近くで、一説では安全な横網町公園(旧陸軍被服廠跡)に避難するよう、当時の署長が指示したために被害が大きくなった、とも言われる。
京葉道路 移転解体中の本所警察署 京葉道路 移転解体中の本所警察署 
京葉道路 緑一丁目交差点で左折、清澄通りへ 京葉道路 緑一丁目交差点で左折、清澄通りへ 
京葉道路 緑一丁目交差点 力士御用達のライオン堂 京葉道路 緑一丁目交差点 力士御用達のライオン堂 

ショーウインドウには力士用のステテコやシャツが展示され、次のような案内文がある。

当店は
KING SIZEの専門店です。
胸囲・胴囲  100cm以上
首囲      46cm以上
足のSIZE  27cm以上

足のサイズだけならクリアできる人は多いと思うが、全条件となるとかなりの肥満である。もっとも力士としては小粒とは思うが。
 清澄通り 江戸東京博物館 清澄通り 江戸東京博物館 

江戸東京博物館は総武線沿いに建てられており、正門は東の清澄通りにあり、江戸東京ひろばを通りぬけ、隣接する国技館横を通ると国技館通りのJR両国駅西口に着く。

清澄通り側には都営大江戸線の両国駅がある。
 清澄通り 江戸東京博物館 清澄通り 江戸東京博物館 



 
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