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軍港横須賀 ヴェルニー公園散策

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大日本帝国残影 軍港 横須賀散策


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ヴェルニー公園 ヴェルニー公園 

 横須賀駅を降りると正面に横須賀本港、左側に海上自衛隊、右にヴェルニー公園がある。幕末、横須賀製鉄所の建設と運営を手がけ、走水から用水を引くなど大きな貢献をしたフランス人ヴェルニーに因んだヴェルニー公園は、自衛艦や、米軍艦船が浮かぶ横須賀本港沿いの春にはバラが咲き乱れる美しい公園である。公園内には横須賀製鉄所(造船所)建設を推進したヴェルニー像と、小栗上野介忠順像がある。 公園の東端には、海軍の碑、軍艦山城之碑、艦橋を模した国威顕彰など、旧海軍のモニュメントが立ち並ぶ。
ヴェルニー公園 ヴェルニー記念館 ヴェルニー公園 ヴェルニー記念館 

横須賀駅を出てすぐの公園西端にある。
ヴェルニー公園 海上自衛隊 護衛艦むらさめ ヴェルニー公園 海上自衛隊 護衛艦むらさめ 

護衛艦むらさめは基準排水量4,550トンの第3世代護衛艦である。
ヴェルニー公園 海上自衛隊 護衛艦群 ヴェルニー公園 海上自衛隊 護衛艦群 

手前の護衛艦むらさめは艦名が見えるが、あとは見えない。
ヴェルニー公園 さくらの広場−1 ヴェルニー公園 さくらの広場−1 
ヴェルニー公園 米軍艦艇 ヴェルニー公園 米軍艦艇 

公園の左には海上自衛隊、右には米軍艦艇が係留している。
ヴェルニー公園 さくらの広場−1 ヴェルニー公園 さくらの広場−1 
ヴェルニー公園 さくらの広場−1 ヴェルニー公園 さくらの広場−1 

さくらの広場ー1は、横須賀駅に隣接し、横須賀本港に停る艦船を楽しめるようにベンチが設けられている。
ヴェルニー公園 フランス式庭園、噴水 ヴェルニー公園 フランス式庭園、噴水 
ヴェルニー公園 小栗上野介忠順像 ヴェルニー公園 小栗上野介忠順像 

小栗上野介忠順像、ヴェルニー像は、フランス式庭園の隣にある開明広場の国道16号沿いにある。

小栗上野介忠順(1827〜1868)

 日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進した。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉淵村)で官軍により斬首された。
ヴェルニー公園 小栗上野介忠順像 ヴェルニー公園 小栗上野介忠順像 
ヴェルニー公園 ヴェルニー像 ヴェルニー公園 ヴェルニー像 

フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837〜1908)

 フランス人の造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年来日した。
明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し1876年帰国した。
ヴェルニー公園 ヴェルニー像 ヴェルニー公園 ヴェルニー像 
ヴェルニー公園 開港碑 ヴェルニー公園 開港碑 

ヴェルニー像の傍にある。

 横須賀市発展の礎をきずいた小栗上野介、ヴェルニーの功績を顕彰するため、昭和28年5月横須賀商工会議所が中心となり、小栗、ヴェルニー両氏の胸像と併せて設置された。
ヴェルニー公園 開港碑 ヴェルニー公園 開港碑 
ヴェルニー公園 さくらの広場−2 ヴェルニー公園 さくらの広場−2 

真冬なので分かりにくいが、春になるときれいなバラの庭園となる。.
ヴェルニー公園 さくらの広場−2 洋風あづまや ヴェルニー公園 さくらの広場−2 洋風あづまや 
ヴェルニー公園 米軍艦艇 ヴェルニー公園 米軍艦艇 

遠くてよく分からないが、艦橋にエンブレムが描かれている。
ヴェルニー公園 旧帝国海軍艦艇記念碑群 ヴェルニー公園 旧帝国海軍艦艇記念碑群 
ヴェルニー公園 海軍の碑 ヴェルニー公園 海軍の碑 

 浦賀に黒船が現われ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
 その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、我が国の近代化に着手した。
特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露戦役を経てわが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。
 こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一集落からわが国屈指の軍港都市となり、発展を遂げることになった。
 しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。
 海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、また我が国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。

平成七年十一月十七日
ヴェルニー公園 海軍の碑 ヴェルニー公園 海軍の碑 
ヴェルニー公園 軍艦山城之碑 ヴェルニー公園 軍艦山城之碑 

軍艦山城の戦歴

 軍艦山城は横須賀鎮守府管下最初の超弩級軍艦として平時の連合艦隊において優れた成績を挙げ太平洋戦争勃発するや各地に転戦し、戦局の変化により悲惨な運命となった昭和十九年十月捷第一号作戦において西村艦隊の旗艦として比島スリガオ海峡に突入し数倍に及ぶ米艦隊と激戦、集中砲火の的となり又魚雷艇および駆逐艦の魚雷攻撃を受け、大破し沈没寸前まで前部砲塔からは間断のない砲撃が続けられたのでありましたが、悲愴にも力つきた。
 山城は乗員千六百余名と共にスリガオ海峡の海底深く沈んでいった。時に昭和十九年十月二十五日午前四時十九分。
 ここに亡くなられた方々のご冥福をお祈り致し追悼慰霊を挙行し世界平和の願いをこめ、再び戦争の惨禍の起こることにないようにすることを決意し此の碑を建立する。
ヴェルニー公園 軍艦山城之碑 ヴェルニー公園 軍艦山城之碑 
ヴェルニー公園 国威顕彰 ヴェルニー公園 国威顕彰 

正面からはよく分からないが、横からみると艦橋となっている。理由は分からないが、銘板が剥がされた跡が残る。
ヴェルニー公園 軍艦長門碑 ヴェルニー公園 軍艦長門碑 

ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をこゝに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
ヴェルニー公園 軍艦沖島の碑 ヴェルニー公園 軍艦沖島の碑 

原始
海は生命の故郷であった
その海に果て
その海深く眠る
戦友たちの御魂やすかれ
いのちながらえしもの
あい集い
再び
いくさおらすなと
ねがうものなり

海防艦沖島は、日本海海戦で降伏したロシア海防戦艦である。
ヴェルニー公園 正岡子規の文学碑 ヴェルニー公園 正岡子規の文学碑 

横須賀や
只帆檣の
冬木立
ヴェルニー公園 正岡子規の文学碑 ヴェルニー公園 正岡子規の文学碑 

 明治二十一年(一八八八)八月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだ。
 碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣(ほばしら)の印象を詠んだもので、句集「寒山落木」に収録されている。

(以下子規略歴)
ヴェルニー公園 西口風景 ヴェルニー公園 西口風景 
ヴェルニー公園 いこいの広場 ヴェルニー公園 いこいの広場 

本町三丁目交差点風景で、左にダイエー、右の高いビルはメルキュールホテル横須賀、その隣が横須賀芸術劇場である。



 
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