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都電荒川線 王子駅前駅
【撮影記録】
平成25年 3月 21日 晴れのち曇り
10:10〜11:40 11,200歩(概算 7.8km 地図上 7.3km) 王子駅前駅〜早稲田駅
営業距離 6.2km 駅数 15
天気予報では終日天気が良く、格好の花見日和のはずだった。しかし、だんだん雲が広がり、早稲田界隈では完全に曇りとなって折角の桜も薄ボケてしまった。
いつもは空いている荒川線がどれも満員なのは例年通りである。 |
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満開の飛鳥山公園 あすかパークレール 公園入口駅、桜新道入口
王子駅前駅を出て左折、JRのガード下を抜けて飛鳥大坂に向かう。
飛鳥大坂の下にあるあすかパークレールは、平成21年7月から運用を始めたモノレールで、北区が整備し、無料である。
普段は運行しているのを見たことがないが、さすがに満開とあって並ぶ人が多い。
あすかパークレールの左には飛鳥山公園に向かう桜新道の入口がある。王子駅からは少し急だがこの道を使うが、明治通りの急で長い飛鳥大坂を上って行く人もいる。 |
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満開の飛鳥山公園 桜新道入口
あすかパークレールも興味を惹かれるが、花見が目的ではないので桜新道を上る。 |
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満開の飛鳥山公園 桜新道を上り、飛鳥山公園へ |
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満開の飛鳥山公園
飛鳥山は上野には及ばないが、桜の木も多い。上野は桜のアーチで有名な桜通り沿いにシートを敷くが、飛鳥山は公園の至る所で宴ができる点が大きなメリットである。 |
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満開の飛鳥山公園 |
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満開の飛鳥山公園 桜の賦の碑
桜の賦は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。
この賦は象山50歳(万延元年 1860)の作と云われ2年後の文久2年(1862)孝明天皇の宸賞を賜った。象山は蟄居赦免となり翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864)7月11日54歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠の文で書は日下部鳴鶴である。明治14年11月15日と刻まれている。この下に挿袋石室が埋蔵されている。 |
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満開の飛鳥山公園 桜の賦の碑
摩耗が激しく、読みにくい。 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場
公園の東は桜の木々が植えられている丘になっており、西に多目的広場があって、その中央に飛鳥山交差点がある。飛鳥山交差点では明治通りが直角に右折して西に向かい、直進すると南北に走る本郷通りである。 |
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満開の飛鳥山公園
全山満開の桜で覆われている。 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場 |
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満開の飛鳥山公園 飛鳥山の歴史碑
飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。 ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この上の旭重山(現在の展望台の所)に飛鳥明神が祀られていたからと伝えられています。 |
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満開の飛鳥山公園 飛鳥山碑
以下の案内は以前の解説板に記載されていたものである。現在のものは次の写真に添えた。
八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保五年(一七二〇)から翌年にかけて、ー二七〇本の山桜 の苗木を植栽した。元文二年(一七三七)にはこの地を王子 権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(風卿・錦江)によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の五経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(ー三二ー〜三)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。
異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく知られている。 |
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満開の飛鳥山公園 飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文ニ年(一七三七)に碑を建立した。
石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。
碑は、総高二一八.五cm、厚さ三四.五cm。元亨年中(一三二一〜二四)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されている。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場 |
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満開の飛鳥山公園 明治三十七八年 戦役記念碑
都内のあちこちにある日露戦争の戦勝記念碑である。普通表面にある揮毫者の名前はない。 |
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満開の飛鳥山公園 児童エリア
児童エリアを過ぎると紙の博物館などの飛鳥山三博物館や、旧渋沢庭園があるが、荒川線を歩くのが目的なので引き返して飛鳥山交差点に向かう。 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場
地域の団体が席を設け、子供たちの笛太鼓の演奏がなされていた。 |
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満開の飛鳥山公園 飛鳥山公園 案内図 |
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満開の飛鳥山公園 多目的広場 |
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満開の飛鳥山公園 階段を下りて飛鳥山交差点へ |