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北の丸公園(武道館)〜清水門〜九段下駅

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北の丸公園 自衛隊音楽まつりが行われる日本武道館 北の丸公園 自衛隊音楽まつりが行われる日本武道館 

今流行のゆるキャラで、名前や何を意味しているのかなどは全く分からない。

普通なら民間の警備員がいるところだが、さすがは自衛隊で統制と書かれた腕章をつけた制服姿の自衛隊員が対応していた。
北の丸公園 自衛隊音楽まつりが行われる日本武道館 北の丸公園 自衛隊音楽まつりが行われる日本武道館 
北の丸公園 日本武道館へ入場待ちの長蛇の列 北の丸公園 日本武道館へ入場待ちの長蛇の列 

清水門に向かうためメイン道路を歩こうとしたが、歩道は入場待ちの長蛇の列で歩けず、車道を歩こうとすると警備の自衛隊員がうるさく制止するので反対側の歩道を歩くことにした。
北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 

武道館の向かいにあるレストハウス裏の木立には近衛歩兵第一聯隊跡記念碑がある。同じく第二聯隊記念碑も木立の散策路を南下した所にあるが、奥まった所にあり分かりにくく、清水門から離れるため立ち寄らなかった。
北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 

 近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治七年(一八七四)一月二三日、明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和二十年(一九四五)大東亜戦争の終末に至るまで、七十一年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、大正天皇、今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ十年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
 西南・日清・日露の各戦役及ぴ日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。
 近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。

昭和四十二年一月二三日
全国近歩一会
北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 
北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 

 田安門、渡櫓門をくぐり、彈薬庫の名残を留むる大 銀杏を仰ぎつつ、ここ聯隊跡記念碑前に佇めば、雄叫の聲、軍靴の響き耳底を打ち、往年の光栄の日々眼前に彷彿たり。
 此処は、北トンネルの出口(營庭側)に当たる所、そぞろ怡和園の樹間を縫いて千鳥ヶ淵池畔を逍遙し、赤煉瓦も懐かしき師団司令部に到れば、その傍らに、皇居の守護神北白川宮能久親王殿下の御銅像の儼然として屹立するを見る。時計台は何処、アーク灯は奈辺にありしや。思い出は津々として尽くるところを知らず。
 年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからずとは雖も、選ばれて近衛兵となり 輦下に奉仕せる吾等、たといこんぱくとなりても永久に皇居を守護し奉らん。(以下芳名録関係の文が続くが省略)
北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊跡記念碑 

何故か横倒しの碑がある。
北の丸公園 日本武道館へ入場待ちの長蛇の列 北の丸公園 日本武道館へ入場待ちの長蛇の列 

入場口は3ヶ所あり、歩道は第1口であまりに長いので奥の木立に入って清水門に向かうこととした。
北の丸公園 日本武道館へ入場待ちの長蛇の列 北の丸公園 日本武道館へ入場待ちの長蛇の列 

木立の中に第2口の列があり、第1口よりは短いが最終者の看板は清水門間近である。
北の丸公園 吉田茂像前の道路 北の丸公園 吉田茂像前の道路 

木立の奥に科学技術館が見える。
北の丸公園 吉田茂像 北の丸公園 吉田茂像 

お馴染みの葉巻姿ではない。
 北の丸公園 清水門(渡櫓) 北の丸公園 清水門(渡櫓) 

科学技術館の裏にある石の階段を下りて清水門(渡櫓)に向かう。石の階段は歩行者用に整備されてはおらず、昔の石段のように段差や幅はまちまちで小石があって歩きにくい。
 北の丸公園 清水門(渡櫓) 北の丸公園 清水門(渡櫓) 

清水門には御三卿の一つ、清水徳川家の屋敷があった。

大手門同様、江戸城の門は防御に強い枡形門である。まず高麗門と呼ばれる門から入り、突き当りの広場を曲がると渡櫓があり、敵兵を広場で銃撃したり、弓矢で防衛する。
北の丸公園 清水門(高麗門) 北の丸公園 清水門(高麗門) 
北の丸公園 清水門 北の丸公園 清水門 

重要文化財 旧江戸城清水門

江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
 清水門は、北の丸北東部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から万治元年(1658)に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は、時期は不明ながら撤去されていたものを昭和36〜41年度の修理で復旧整備したものである。清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有しており、門から北の丸に至る石段とともに江戸時代の状況を色濃く残している。
清水橋を渡り、千代田区役所前で左折、内堀通りへ 清水橋を渡り、千代田区役所前で左折、内堀通りへ 

正面が千代田区役所で、左は千代田会館、右は東京法務局である。
清水橋を渡り、千代田区役所前で左折、内堀通りへ 清水橋を渡り、千代田区役所前で左折、内堀通りへ 
内堀通り 千代田会館の壁の説明板 内堀通り 千代田会館の壁の説明板 

清水門

 清水門[しみすもん]は、中世にこの地にあった清水寺にその名を由来するといれれ、江い時代には江戸城の・画にとりこまれ、北の丸への出入口として利用されました。
 この門は、外桝形門[そとますがたもん]という構造で、石垣と水濠で桝形(四角い広場)を造り高麗門[こうらいもん]と渡櫓門[わたりやぐらもん]を配していました。
門の創建年代ははっきりしませんが、慶長12年(1607)に北の丸普請が行なわれていますので、この時期とも考えられます。
寛永元年(1624)に安芸広島藩主浅野長晟によって修築され、明暦3年(1657)の大火で焼失したため翌万治元年(1658)に再修築されています。隣接する田安門[たやすもん]とともに、昭和36年(1961)6月7日付で重要文化財(建造物)に指定されました。
 門内の北の丸は、武家地として利用され、中期以降は御三卿のうち田安家・清水家の屋敷と蔵地に利用されます。
 明治から昭和戦前までは近衛歩兵連隊の駐屯地となりました。
内堀通り 九段会館(旧 軍人会館) 内堀通り 九段会館(旧 軍人会館) 

九段会館は旧軍人会館で、2.26事件では戒厳司令部がおかれた。
帝冠様式と言われる独特の外観で、結婚式場や講演会などで利用されていたが、東日本大震災で天井が崩落、死傷者が出たため、営業を停止している。
内堀通り 九段下交差点 内堀通り 九段下交差点 
東京メトロ 東西線 九段下駅 東京メトロ 東西線 九段下駅 



 
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