万歩計 トップ テーマ別 目次 大学点描 目次 早稲田大学 目次 ホームカミングデー(H16−10−24) 目次   稲門祭点描  ページ ラスト 


万歩計



(From H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)

ホームカミングデー式典風景
(H16−10−24)

(English)

 直前のページに戻ります。

写真の一覧表へ 

文学部 記念会堂 文学部 記念会堂 

戸山キャンパスの文学部の入口の右手にあり、最前列が卒業50年組(昭和30年卒)、次が45年組(昭和35年卒)でこれで会場の半分を占める。残り半分が35年組(昭和45年卒)、25年組(昭和55年卒)の席である。
指定された席の前方に座ったが、演壇から遠く、デジカメでは良く撮れなかったのが残念である。。
式典の演壇 式典の演壇 
文学部 記念会堂 文学部 記念会堂 
キャンパスツワー受付 キャンパスツワー受付 

キャンパスツワーはいくつかのコースがあるが、人数制限があり、10時から13時半の分の整理券を配るとのことで、本部(西早稲田キャンパス)に向った。知らぜざる大隈講堂とか、新しいワセダを巡る、との文言に惹かれ、90分のワセダ今昔探訪ツアーを選んだ。
メインストリート風景 メインストリート風景 
メインストリート風景 メインストリート風景 
メインストリート風景 メインストリート風景 

かっては角帽を被ったふくチャンが早稲田のマスコットだったが、慶應のミッキーマウスが著作権問題でマスコットとして使えなくなり、一新して新たなマスコットを作ったらしい。大隈だから熊、と言うのも安直だが、しょぼくれた姿が親しめない。
メインストリート風景 メインストリート風景 
ホームカミングデー式典開催 ホームカミングデー式典開催 

10時半に始められ、最初に応援部による歓迎プログラムがあった。
応援歌 早稲田の栄光を斉唱 応援歌 早稲田の栄光を斉唱 

早稲田の栄光は、早慶戦で慶應に勝った時に見知らぬ同士が肩組みながら神宮で歌われるものである。
早稲田の栄光
岩崎巌作詞 西条八十補 芥川也寸志作曲

栄光はみどりの風に 花ひらく若き日の歌
重ね来し歴史尊く 受け継ぎて輝く早稲田
早稲田 早稲田 我等の早稲田

ふり仰ぐ時計の塔に 青春の眸は澄みて
雲と湧く文化の理想 担い立つ我等たくまし
早稲田 早稲田 我等の早稲田

昂然と高張る胸に 伝統の息吹通いて
翻えす校旗の紅に 感激の血潮は沸る
早稲田 早稲田 我等の早稲田

先哲の面影偲ぶ なつかしき真理の杜を
彩るは七色の虹 とこしえに輝く早稲田
早稲田 早稲田 我等の早稲田

早稲田大学 応援部ホームページ 

  試聴する


昭和二十七年 作詞 岩崎 巌
                   作曲 芥川也寸志

 創立70周年記念歌として作られ、すべての早稲田人の心の琴線に触れる名曲。
この歌を歌うとき、人は感激にわれ知らず頬を濡らす。
 慶応の「丘の上」と同様、早慶戦に勝ったときにだけ肩を組んで歌い、最近では、卒業式でも歌う。

ホームページには、校歌を初め、有名な応援歌の歌詞が記載され、いくつかは演奏を聞くことが出来る。
応援歌 早稲田の栄光を斉唱 応援歌 早稲田の栄光を斉唱 
早稲田の戦没者、イラクで殉職した奥大使に黙祷 早稲田の戦没者、イラクで殉職した奥大使に黙祷 

早稲田大学の関係者で戦没した4,300名への平和祈念碑が大隈庭園にあり、毎年ホームカミングデーの朝に総長以下関係者が献花する。イラクで殉職した奥大使は早稲田のラグビー部出身であり、来年卒業25周年だった。
総長祝辞 総長祝辞 

現在の総長は、第一理工学部機械工学科出身の白井克彦教授である。
総長祝辞の後、卒業生代表の挨拶、校歌斉唱となり、11時半に閉会となった。
早稲田大学校歌
相馬 御風作詞 坪内 逍遥校閲 東儀 鉄笛作曲


都の西北早稲田の杜に 聳ゆる甍は我等が母校
我等が日頃の抱負を知るや 進取の精神学の独立
現世を忘れぬ久遠の理想 
かがやくわれらが行手を見よや
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 
早稲田 早稲田 早稲田

東西古今の文化の潮 一つに渦巻く大島国の
大なる使命を担ひて立てる 
我等が行手は窮り知らず
やがても久遠の理想の影は
あまねく天下に輝きしかん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 
早稲田 早稲田 早稲田

あれ見よかしこの常磐の杜は 心の故郷我等が母校
集まり散じて人は変れど 仰ぐは同じき理想の光
いざ声そろえて空もとどろに 
我等が母校の名をばたたえん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 
早稲田 早稲田 早稲田
早稲田大学 応援部ホームページ 

  試聴する  

明治四十年 作詞 相馬 御風
          作曲 東儀 鉄笛
          校閲 坪内 逍遥

 この校歌が初めて制定されたのは学園の創立二十五周年にあたる明治四十年十月であった。 二十五周年祝典に新しい校歌の制定を目指した学校は広く学生に歌詞の懸賞募集をしたが望ましいものが得られなかったので、審査員である坪内逍遥と島村抱月はこの大任を当時二十五歳の相馬御風に託したのである。彼はこの付託に驚きしきりに固辞したが、容易に許されず、ついに逍遥の校閲加筆を条件にこの大任を引き受けることになった。俊秀相馬御風もこの大任を引き受けてさすがに緊張した。彼はまず音楽に造詣の深い鉄笛東儀季治を訪ねて相談した。鉄笛の手許にあった英米諸国の各大学校歌を調べ、その曲を調べ、その曲を聞かせてもらって、大体の見当をつけてから当時の学長高田早苗博士、坪内博士にその内容その他の条件を尋ね、骨組を作って先輩の承認を経た上で作詞に着手した。御風は八千の健児が歌う校歌を作るを命ぜられた光栄に頬を輝かせて十日間の日時を費やして作詞を終えた。調子は第一に荘重を旨とし、坪内、東儀、島村三氏の意見を斟酌(しんしゃく)して八七調に定めた。最後に逍遥に校閲加筆を請うたが、逍遥はこれを一読するや口を極めて絶賛し、説くに第三節の「心の故郷」云々の句を称揚し、「早稲田、早稲田、早稲田」のエールを各節の終わりに付け加えただけであった。歌詞は、御風から東儀鉄笛に廻され鉄笛もまた一生一代の仕事として、その全音楽的精力を傾注して作曲に没頭し、幾度も幾度も校庭に全校生徒を集めて自分の指揮の下に練習を行った後、いよいよそれを校歌と定めることになった。

ホームページには、校歌を初め、有名な応援歌の歌詞が記載され、いくつかは演奏を聞くことが出来る。

 
万歩計 トップ テーマ別 目次 大学点描 目次 早稲田大学 目次 ホームカミングデー(H16−10−24) 目次   稲門祭点描  ページ トップ