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吉原大門交差点〜吉原散策〜一葉記念館

【関連サイト】   下町散策(一葉記念館〜鷲神社 三の酉〜浅草寺)H251127(三ノ輪駅〜日本堤一丁目交差点〜一葉記念館)

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土手通り 吉原大門交差点で左折、仲之町通りへ 土手通り 吉原大門交差点で左折、仲之町通りへ 

普段は見返り柳を見た後、そのまま土手通りを北上するが、ソープランドで有名な吉原を散策することにした。
土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 

 旧吉原遊廓の名所の一つでで、京都の島原遊廓の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったというところから「見返り柳」の名があり、
「きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
  見返れば意見か柳顔をうち」
など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。
土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 
土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 
吉原 仲之町通りを西進 吉原 仲之町通りを西進 

特になんということもない商店街が続く。
吉原 仲之町通り 吉原大門の標識 吉原 仲之町通り 吉原大門の標識 

この標識を過ぎると、雑居ビルに間借りではなく、仲之町通りの両側にソープランドのビルが建ち並ぶ。
吉原 仲之町通り ソープランドのビルが建ち並ぶ 吉原 仲之町通り ソープランドのビルが建ち並ぶ 
吉原 仲之町通り ソープランドのビルが建ち並ぶ 吉原 仲之町通り ソープランドのビルが建ち並ぶ 
吉原 仲之町通り 旧町名由来 吉原 仲之町通り 旧町名由来 

旧浅草新吉原揚屋町

 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは″葭原″と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。揚屋町ができたのは、吉原が新吉原へ移転する際に、それまで各町にあつたいくつかの揚屋を一力所にまとめたときである。
吉原 仲之町通り 千束四丁目交差点で右折、揚屋通りへ 吉原 仲之町通り 千束四丁目交差点で右折、揚屋通りへ 

地図によると仲之町通りから北へ3本の大きな道があり、東から江戸町通り、揚屋通り、京町通りである。その後一葉記念館に行くので便利な揚屋通りを選んだ。
吉原 揚屋通りを北上(撮影秘話あり) 吉原 揚屋通りを北上(撮影秘話あり) 

写真ではソープランドのビルが立ち並ぶ閑散とした風景だが、実際には12時というのに黒服の客引きが各ビルに並び、通行人に声をかけている。そのような風景を撮るのは魅力的だがトラブルが起こりかねず、残念だが支障のない場所を選んでいる。
 吉原 揚屋通り よし原揚屋町の標識がある突き当りで左折 吉原 揚屋通り よし原揚屋町の標識がある突き当りで左折 
よし原揚屋町の標識のすぐ先のY字路で右折 よし原揚屋町の標識のすぐ先のY字路で右折 

直進すると国際通りの西徳寺前交差点に出る。
樋口一葉 たけくらべ 美登利の家 大黒屋の寮跡 樋口一葉 たけくらべ 美登利の家 大黒屋の寮跡 

飛不動前交差点手前の一葉記念館案内板がある角の薬局の壁に説明板がある。
樋口一葉 たけくらべ 美登利の家 大黒屋の寮跡 樋口一葉 たけくらべ 美登利の家 大黒屋の寮跡 

 明治26年から同27年にかけて、樋ロー葉がこの茶屋町通り(当時下谷竜泉寺町368番地)に住んていた頃、前方の車道の西寄り三角地帯に名作「たけくらぺ」(十二)にでてくる美登利の家のモデル大黒屋の寮(当時下谷竜泉寺町150番地)があり、そこには美登利にそっくりな娘もいた。
 寮主は石野平次郎で、新吉原町2丁目26番地の妓楼松大黒屋を経営しており、当時の新吉原細見記を見ると、その妓楼には、太夫大巻がいてお職を徹している。
「たけくらべ」の原作未定稿「雛鶏」の一部は、一葉がこの竜泉寺町にいた当時に書いたものと推測され、そこに登場する子供達はみなそれぞれ地元にモデルが実在した。
飛不動前交差点手前 案内板に従い右折 飛不動前交差点手前 案内板に従い右折 

すぐ先に飛不動前交差点が見える。
一葉記念館 一葉記念館 

案内板に従い直進すると一葉記念館があり、左の小公園内に色々な碑がある。

5000円札発行ブームの10年前に訪れた時は普通の民家風の建物であった。その1年後に訪れた時は改築中だったが、こんな立派なものになっていた。
一葉記念館前公園 菊池寛による追悼の碑 一葉記念館前公園 菊池寛による追悼の碑 

この地は樋口一葉の旧居跡で、菊池寛が昭和11年に碑を建てたが昭和20年3月の空襲で溶けてしまった。そのため、昭和24年に建てたが、菊池寛は既に亡く、小島政二郎が尽力した旨が書かれている。
一葉記念館 一葉記念館 

一葉記念館

一葉記念館は、昭和36年に我が国初の女流作家の単独資料館として開設されました。その後40年余りを経て老朽化が進み、樋口―葉が「新五千円札の肖像」に採用されたこと
を機に、平成18年11月1日にリニューアルオーブンしました。
 一葉自筆の「たけくらべ」未定稿や書簡、龍泉寺町に開いた小店の模型や一葉がつけていた仕入帳など、貴重な資料を展示しています。また、明治期の下町の文化、風俗資料もご覧いただけます。
 一葉記念館前公園 一葉女史たけくらべ記念碑 一葉記念館前公園 一葉女史たけくらべ記念碑 

近代文学不朽の名作「たけくらべ」は樋ロー葉在住当時の竜泉寺町を中心に吉原界隈が舞台となった。これを記念して昭和二十六年十一月、地元一葉記念公園協賛会によって建てられ、その後台東区に移管された。
碑文は女史の旧友歌人佐佐木信綱博士作並びに書による次の歌二首が刻まれている。

 紫の古りし光にたくへつべし
 君こゝに住みてそめし 筆のあや
一葉女史たけくらべ記念碑
 そのかみの 美登利信如らも この園に
 来あそぶらむか 月しろき夜も
             佐佐木 信綱
 一葉記念館前公園 一葉女史たけくらべ記念碑 一葉記念館前公園 一葉女史たけくらべ記念碑 



 
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